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早稲田 一男(わせだ かずお、1959年4月14日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW(センターフォワード)、MF(攻撃的MF、守備的MF)。宮崎県日南市出身〔中尾 1986、136-137頁〕。 == 来歴 == 中学時代にサッカーを始めると頭角を現し〔、高校進学の際には周囲の勧めもあって東京の帝京高等学校へ越境入学〔中尾 1986、138頁〕。古沼貞雄監督の下で1年次からレギュラーとなり高校総体ベスト4、2年次は高校総体優勝、高校選手権ベスト4進出に貢献。3年次には主将として宮内聡や金子久らと共に2度目の高校選手権制覇に導いた〔中尾 1986、139頁〕。早稲田はその傑出した得点能力でマスコミの注目を集め〔、これ以降、第二の早稲田を目指そうと同校には遠隔地からの入学希望者が集まる様になった〔。 卒業後の1978年に日本サッカーリーグ (JSL) 1部の古河電気工業サッカー部へ入部。古河は前年の1977年にチームの主力選手だった奥寺康彦がドイツの1.FCケルンへ移籍したことにより成績が低迷し〔中尾 1986、140頁〕、早稲田の加入した年も開幕から8連敗を喫しリーグ最下位となるなど低迷が続いていたが〔、若返りを進める部の方針もあって初年度から出場機会を得ることになった〔。その後、右膝靱帯の負傷に見舞われながらもポジションをFWから攻撃的MF、守備的MFと変え、7年間に渡って同サッカー部の中盤を務めた〔。 代表レベルでは高校時代に日本ユース代表〔国吉好弘「アンダーの歴史を紐解く 連載第19回 1977年 U-20代表」『週刊サッカーマガジン』2012年4月10日号、ベースボール・マガジン社、78頁〕、社会人時代には日本B代表、日本選抜などに選出されジャパンカップや海外遠征等に参加〔。JSLの優秀選手が参加するJSL東西対抗戦にも出場した〔。 1985年1月に古河を退社〔中尾 1986、141頁〕。郷里である宮崎県へ戻り、宮崎実業高等学校(後の日章学園高等学校)の体育教師として赴任すると同時にサッカー部の監督に就任〔。同校を率いて第89回全国高等学校サッカー選手権大会ではベスト8進出に導くなど、宮崎県や九州有数の強豪校に育て上げている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「早稲田一男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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