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旭伸航空(きょくしんこうくう)は、新潟県新潟市東区にかつて本社を置いていた日本の航空会社。 == 概要 == 1968年3月15日、国内産業航空株式会社(こくないさんぎょうこうくう)として創業。1971年、旭伸航空株式会社に商号を改称。略称はKOK、コールサインはKyokushin Air。新潟空港と佐渡空港との間を結ぶチャーター便や航空写真撮影用のフライトなどを主たる事業としていた。 1994年、佐渡郡真野町(現佐渡市)に本社を置き味噌を始めとする食品製造などを手掛ける「株式会社マルゴ」が経営権を獲得した。味噌製造会社がコミューター航空事業に乗り出したのは、当時新潟 - 佐渡間の航空路を運営していた新中央航空が利用客数伸び悩みなどの為同路線から撤退し、地元の名士であった(社長の高野宏一郎は2004年から2012年まで佐渡市長を務めた)マルゴ社のオーナー高野家に事態の収拾が求められたことによる。 1996年4月から新潟 - 佐渡路線の運航を開始した。当時佐渡郡新穂村(現佐渡市)で保護飼育されていたトキに因んで、就航機であるブリテン・ノーマン アイランダー(BN-2B-20)にはトキのイラストが塗装され、愛称も「TOKI夢ライン」と命名された。春から秋は1日4往復、冬季は3往復を運航していた。 しかし新潟港と両津港の間には、佐渡汽船がカーフェリーとジェットフォイルによって運航する航路があり、佐渡線はこの佐渡汽船の両津航路との競合を余儀なくされた。過去に佐渡線に就航していた各社が撤退したのも、この海上航路との競合が最大の要因である。こうした事から佐渡線は就航以来毎年度損失を計上し続けていたが、県と佐渡島内の自治体は旭伸航空の応援にまわり巨額の赤字額を補填しながら運航の維持を図った。これは佐渡島の周囲に広がる日本海が特に冬季に猛烈な時化が発生することで有名な海であり、悪天候で両津航路の運航が困難になる事態になっても本土と佐渡島を結ぶ交通路を確保し、佐渡島内の医療体制や郵便物・宅配物の配送体制を維持するために行われた措置であった。実際に荒天で両津航路が欠航した際には1日最大8往復まで増便する措置を取ったケースもあった。 だが利用客数は減少を続け、2002年度以降は年間1万人前後にまで落ち込んだ。そのため累積赤字も膨らみ続け、それと共に行政側からの運航補助額も増額し続けた。運航開始の1996年度から2005年度は、県と佐渡島内の各市町村(2004年、島内全市町村が新設合併し佐渡市となる)から合計約4,700~5,500万円を、2006年度以降は赤字額の9割を上限とし、県と市から合計約6400万円が補助された。一方で運航業務に携わる人員も経営難などの為新規人員の確保がされないまま高齢化が進み、パイロット2名のうち1名が2008年度中に定年となり、さらに整備士も体力上の理由から退職を申し出るなどし、運航維持が困難な状況に陥った。このため、当時の羽吹登社長は「経営実態から、航路の存続は難しい」として同年2月、県と佐渡市に9月末の空路撤退を申し出た。4月のダイヤ改正からはそれまでの2機体制から1機体制として減便、9月30日のフライトを以って運航を終了し、旭伸航空もその歴史に幕を下ろした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「旭伸航空」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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