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昇平丸(しょうへいまる)は、幕末に薩摩藩が建造した洋式軍艦である。後に江戸幕府に献上されて昌平丸と改称した。 == 概要 == 寛永12年(1635年)、幕府は諸大名の水軍力を抑止するために、武家諸法度の一つとして大船建造の禁(大船建造禁止令)を制定し、500石以上の船の建造が禁止された(後に商船のみ緩和)。19世紀に入り、日本沿岸にロシアを始めとする西欧諸国の艦船が現れるようになっても、幕府は大名に対して軍用の大船及び洋式船の建造を許可しなかった。 藩主に就任以降、富国強兵政策を採っていた薩摩藩主島津斉彬は、嘉永5年12月27日に幕府に対して当時薩摩の庇護下にあった琉球王国の防衛を名目に、琉大砲船(洋式軍艦)の建造願いを提出した。嘉永6年(1853年)4月29日に建造の許可が降りると、同5月29日に桜島瀬戸村造船所で起工した。 琉大砲船の建造に着手した直後の嘉永6年(1853年)6月、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が来航(黒船来航)すると、幕府は老中阿部正弘の主導で、8月8日に水戸藩に「旭日丸」の建造を、9月8日に浦賀奉行に「鳳凰丸」の建造を命じ、9月15日には大船建造禁止令を解除した。 琉大砲船は起工から19か月後の安政元年(1854年)12月12日に竣工した。嘉永7年(1854年)5月10日に竣工した鳳凰丸に続いて日本で2番目の洋式軍艦である。なお、船旗として日の丸が掲げられたのが斉彬の提案であるとする説がある一方で、浦賀奉行の提案によるものであり、徳川斉昭の強い支持もあって鳳凰丸竣工に際し日本船の総印として規定され、その後の昇平丸にも適用されることになったとの見解もある〔安達(1995年)、281-283頁。〕。 琉大砲船は安政2年(1855年)1月26日に昇平丸と命名され〔公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史』上, 原書房, 1968, p. 733。〕、江戸に回航して、同年8月13日に幕府に献上された。その後は品川に置かれ、長崎海軍伝習所への伝習生派遣など、主として練習艦として使用された。 明治維新後の明治2年(1869年)、昌平丸は咸臨丸と共に開拓使所管となり、輸送船として使われたが、明治3年(1870年)3月、松前沖で嵐に遭遇し、北海道の上ノ国木の子村の猫澤海岸で高波により座礁して破船した〔明治3年『開拓使公文鈔録』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「昇平丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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