|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 子 : [こ, ね] (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November) ・ 源 : [みなもと, げん] 【名詞】 1. source 2. origin
昌子 源(しょうじ げん、1992年12月11日 - )は、兵庫県神戸市出身のプロサッカー選手〔安藤隆人『プラチナ世代のW杯』p.132〕。J1リーグ・鹿島アントラーズ所属。日本代表。ポジションはディフェンダー(センターバックおよび左サイドバック)〔。姉は、昌子カエデ。 ==来歴== === プロ入り前 === 兵庫県神戸市で生まれ育ち、小学生時代に地元のフレスカ神戸に入団し、サッカーを本格的に始める〔。入団当初のポジションはフォワードであった〔。 中学生になると、ガンバ大阪ジュニアユースに入団してプレーを続ける〔。当時のチームメイトに宇佐美貴史や大森晃太郎がおり、中学1年時は共に同じピッチに立ってプレーをしていた〔。中学2年に入る頃に膝を負傷し、満足にプレーできない日々が続いた〔安藤隆人『プラチナ世代のW杯』p.133〕。 中3の途中でガンバ大阪のジュニアユースを退団。しばらくサッカーをしない空白期間があった。当時JFAのB級ライセンス受講者を対象としたインストラクターを務めていた父にインストラクターのアシスタントとして講習会に参加していた米子北高校サッカー部のコーチの中村氏は進路が決まっていなかった昌子の練習参加を提案。当初昌子自身は高校でサッカーを続ける意思は無かったが、練習参加がきっかけとなり、米子北高校へ進学し、新たなスタートを切った〔『CHANT』 【鹿島アントラーズ】 サッカー選手を支える人々 第3回~昌子源選手の父 昌子力さん 前編~〕。しかし、大型フォワードとして期待されて入学したものの、満足に試合に出られない日々が続くと、監督の城市よりセンターバックへのコンバートを命じられ、サッカー選手としての大きな岐路に立つこととなった〔。昌子は当時の心境について「最初は本当に嫌だった。FWをやらせてくれよとずっと思っていた。でも、監督やコーチからは『絶対にFWはやらせない』と言われて、高校2年にあがる時には、CBを真剣にやらないと試合に出られなくなると思って、取り組むようになった」と述べている〔。 気持ちを切り替えた昌子は次第にレギュラーとして定着し、経験を積む毎にCBとしての才能を開花させていった〔安藤隆人『プラチナ世代のW杯』p.134〕。2010年4月、高校3年に上がる頃にはU-19日本代表候補として招集されるまでに成長し、神戸合宿に参加、ヴィッセル神戸との練習試合に出場する〔安藤隆人『プラチナ世代のW杯』p.136〕。しかし、この試合で目立った活躍を見せられなかった昌子は代表候補から落選することとなる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「昌子源」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|