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明応地震 : ミニ英和和英辞書
明応地震[めいおうじしん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ち]
  1. (n,n-suf) earth 
地震 : [じしん]
 【名詞】 1. earthquake 

明応地震 : ウィキペディア日本語版
明応地震[めいおうじしん]

明応地震(めいおうじしん)は、室町時代後期(戦国時代初期)に発生した地震である。南海トラフ沿いの巨大地震と推定される。
記録にある被害分布が安政東海地震に類似しており〔、震源域は東海地震東南海地震と思われるものであった〔 小山真人:(2008) 東海地震はどんな地震か?, 『地震防災』 学術図書出版, 1498年明応東海地震 -津波で外海とつながった浜名湖-〕。一方で、四国でも一部大地震があったとする記録が発見され、また発掘調査から同時期の南海地震の存在の可能性が唱えられるようになり、南海トラフ巨大地震の一つとされる。
== 東海地震の記録 ==
明応7年8月25日刻(ユリウス暦1498年9月11日8時頃、グレゴリオ暦1498年9月20日)、東海道沖に大地震が発生した。
御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『実隆公記』、『言国卿記』および『大乗院寺社雑事記』等に京都奈良など畿内付近の記録が見られる。『言国卿記』や『御湯殿の上の日記』には10月まで、『実隆公記』には11月7日まで余震と思われる地震の記録がある。畿内の被害と思われるものは『大乗院寺社雑事記』にある興福寺と見られる地蔵堂の庇が崩壊した記録である。『後法興院記』の東海道沿岸における記録は伝聞によるもので「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」とある。しかし、明応の頃になると畿内付近のみならず、遠江駿河で記された記録も確認されるようになる〔矢田俊文 『中世の巨大地震』 吉川弘文館、2009年〕。
紀伊から房総にかけて太平洋側で震動が強い。山梨県山梨市窪八幡神社別当・普賢寺の『王代記』明応7年(1498年)条には「天地振動シテ国所々損、金山クツレ(崩れ)」と記されており、甲斐国でも強い揺れであったと考えられている。なお、『王代記』に記される「金山」は地理的関係から甲州市塩山の黒川金山と考えられている。各地の揺れは江戸時代の安政東海地震や宝永地震に共通するが震害の記録は少ない。熊野本宮の社殿が倒壊、那智の坊舎の崩壊、遠江では山崩れに地割れがあった。『熊野年代記』の記録によれば紀伊湯の峯温泉の湧出が10月8日まで42日間停止した。
河角廣により規模''M''K = 7.5 が与えられ〔Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482〕、マグニチュードは''M'' 8.6 に換算されている。また''M'' 8.3〔〔宇佐美龍夫 『日本被害地震総覧』 にある''M'' 8.2 - 8.4の中間値を採用。〕前後、あるいは東海沖から伊豆半島南方沖と推定される断層モデルから地震モーメントは''M''0 = 7 × 1021N・m〔相田勇(1981) 相田勇(1981): 東海道沖に起こった歴史津波の数値実験, ''東京大学地震研究所彙報'', 56, 367-390.〕 (''M''w 8.5〔力武常次 『固体地球科学入門』 共立出版、1994年〕)と推定され、震度分布を推定する記録もこれ以前の地震よりはるかに充実しているが、江戸時代の地震より記録が少ない歴史地震であり、断層モデルによる近似の程度も悪く数値の精度は低い〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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