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妻木 煕子または明智 煕子〔妻木煕子も明智煕子も両方とも現代風の俗名であり、当時は女子名をこのように呼ぶ習慣はなかった。〕(つまき ひろこ、あけちひろこ、生年不詳 - 天正4年(1576年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の正室〔煕子以前に、は山岸光信の娘・千草に、光秀の庶長子・作之丞光重を産ませたという説もある。これは密通であったために、この子は山岸姓を名乗り、郷士となった言う。〕。子については俗説が多くあり、もうけたとされる3男4女の内、母は別であるという異説があるものを含むが、それぞれ長女が明智光春(秀満)の室、次女が明智光忠の室、三女・珠(細川ガラシャ)が細川忠興の室、四女が織田信澄の室となり、嫡男の十兵衛光慶(千代寿丸)、次男の十次郎光泰、三男に乙寿丸がいたという。 == 生涯 == 生年不詳ながら、一説に享禄3年(1530年)頃〔『西教寺塔頭実成坊過去帳』〕、長女として生まれたといわれる。『細川家譜』や『美濃国諸旧記』などによると父は妻木範熙(勘解由左衛門)、もしくは『妻木系図』によると妻木広忠で、両者には同一人物説もある。『明智軍記』によると名は煕子で、『絵本太功記』では照子の名で登場するが、これは誤記であろう。 天文14年(1545年)頃、明智光秀と婚約。逸話は後世の創作ともいわれるが、婚約後しばらくして煕子は疱瘡にかかり、美しかった顔に痘痕が残ってしまった。妻木氏にとって潰したくない縁談だったので、父・範煕は煕子と瓜二つの妹(芳子)に姉の身代わりをさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたという。 その後、光秀は長良川の戦いで斎藤道三に与したため、その跡を継いだ斎藤義龍に攻められ、本拠を失い浪人。 困窮する生活の中、連歌会を催すもお金がなかった時に、煕子は自分の黒髪を売ってそのお金で席を設けて、光秀を助けたという。光秀はこれに感謝して、煕子存命中は側室を置かずに大切にしたという逸話は有名であるが、側室はいたという説もある。 天正4年11月7日(1576年11月27日)〔または6月7日(7月6日)〔『細川家譜』による。〕に死去。享年は、46または36、42とも言う。 戒名は福月真祐大姉。滋賀県大津市の明智氏、妻木氏の菩提寺である西教寺に墓がある。光秀が重病となった際の看病疲れが元で病死したという。しかし、『明智軍記』などによると天正10年(1582年)の坂本城落城のときに死亡したという説もある。 なお、江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉は、黒髪を売った逸話が好きで、「月さびよ 明智が妻の 話せん」という煕子の事を詠んだ句を残している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「妻木煕子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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