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明楽 茂正(あけら もせい〔名前の読み仮名は『寛政譜以降旗本家百科事典』第1巻、P49より〕、八五郎、大隈守、生年不詳 - 嘉永6年6月13日(1853年7月18日))は、江戸幕府の旗本。御庭番明楽家分家の3代目。父は勘定奉行を務めた明楽茂村。 == 略歴 == 両番格御庭番〔御庭番家筋の者が、御目見以上の役職や布衣以上の役職に就任した場合、その嫡子が就く役職。〕として遠国御用〔変装し、身分を隠して諸国の探索を行う任務。〕を務める。一度目は同じく両番格御庭番の村垣専次郎とともに文政元年(1818年)正月に上方筋へ、同年5月に浦賀表へ出向く。文政9年(1826年)の6月には小十人格御庭番〔の川村庄五郎とともに上方筋へ派遣され、三度目の遠国御用を務めたという記録が残されている〔『江戸城御庭番』(深井雅海著)P70〕。 文政10年(1827年)12月27日、西丸膳奉行に就任〔『寛政譜以降旗本家百科事典』第1巻、P49。〕。天保8年(1837年)4月2日に本丸膳奉行に、翌9年(1838年)11月25日に広敷用人となる〔。広敷用人在職中に大隈守を名乗る〔『江戸城御庭番』P207。〕。天保12年(1841年)4月に明楽家(800石)の家督を継ぐ〔。同年5月20日に西丸広敷用人を務め、翌13年(1842年)8月24日に禁裏附に就任〔。嘉永2年(1849年)正月20日、京都東町奉行となり〔〔『国史大辞典』4巻 P355。京都町奉行一覧より。〕、嘉永3年(1850年)8月24日に小普請奉行〔、翌4年(1851年)12月20日に普請奉行に就任する〔。嘉永6年(1853年)6月13日に死去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明楽茂正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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