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明治6年政変 : ミニ英和和英辞書
明治6年政変[めいじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

明治 : [めいじ]
 【名詞】 1. Meiji era 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
政変 : [せいへん]
 【名詞】 1. coup 
: [へん]
  1. (adj-na,n) change 2. incident 3. disturbance 4. strange 5. flat (music) 6. odd 7. peculiar 8. suspicious-looking 9. queer 10. eccentric 1 1. funny 1

明治6年政変 ( リダイレクト:明治六年政変 ) : ウィキペディア日本語版
明治六年政変[めいじろくねんせいへん]
明治六年政変(めいじろくねんせいへん)は、征韓論に端を発した明治初期(1873年)の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。
== 経緯 ==
そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣した。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館を利用して、征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる(これは西郷が板垣に宛てた書簡からうかがえる)。これを根拠に西郷は交渉よりも武力行使を前提にしていたとされ、教科書などではこれが定説となっている。
この西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣桐野利秋大隈重信大木喬任らであり、反対したのが大久保利通岩倉具視木戸孝允伊藤博文黒田清隆らである。岩倉使節団派遣中に留守政府は重大な改革を行わないという盟約に反し、国内が急激な改革で混乱していたことは大久保らの態度を硬化させた。大久保ら岩倉使節団の外遊組帰国以前の8月17日、一度は閣議で西郷を朝鮮へ全権大使として派遣することが決まったが、翌日この案を上奏された明治天皇は「外遊組帰国まで国家に関わる重要案件は決定しない」という取り決めを基に岩倉具視が帰国するまで待ち、岩倉と熟議した上で再度上奏するようにと、西郷派遣案を却下している(岩倉の帰国は9月13日)。
大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず西郷が朝鮮に行った場合必ず殺される(殺されずとも大院君が使節を拒否した場合は開戦の大義名分になってしまう)、そうなった場合結果的に朝鮮と開戦してしまうのではないかという危機感、当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題(台湾出兵参照)、ロシアとの樺太千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えた。
10月14日 - 15日に開かれた閣議には、太政大臣三条実美右大臣・岩倉具視、以下参議の西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣、大久保利通、大隈重信、大木喬任が出席。この際、大隈・大木が反対派に回り、採決は同数になる。しかし、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。これに対し大久保、木戸、大隈、大木は辞表を提出、岩倉も辞意を伝える。
後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった三条が17日に過度のストレスから倒れ、意識不明に陥る。20日には岩倉が太政官職制に基づき太政大臣代理に就任した。22日、西郷・板垣・副島・江藤が岩倉私邸を訪れ派遣決定の上奏を要求するが、岩倉は「三条太政大臣による派遣決定は上奏するが、太政大臣代理である私の意見も上奏する」と主張した。そして23日、岩倉は派遣決定と派遣延期の両論を上奏。明治天皇は岩倉の意見を採用し、西郷派遣は無期延期の幻となった。大久保は事前に宮内卿徳大寺実則に対し、西郷らが明治天皇に直訴しに来ても会わせないようにと根回しを行っていた。
そして西郷は当日、板垣、後藤、江藤、副島は翌24日に辞表を提出。25日に受理され、賛成派の参議5人は下野した。また、桐野利秋ら西郷に近く征韓論を支持する官僚・軍人が辞職した。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷を咎めず、逆に西郷に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。
この後、江藤新平によって失脚に追い込まれていた山縣有朋井上馨は西郷、江藤らの辞任後しばらくしてから公職に復帰を果たす。この政変が士族反乱自由民権運動の発端ともなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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