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明治十八年の淀川洪水(めいじじゅうはちねんのよどがわこうずい)は、1885年(明治18年)6月中旬から7月にかけて続いた淀川の洪水のことである。明治大洪水とも言う。 == 概要 == 1885年(明治18年)6月は、上旬から二つの低気圧の影響により雨が降り続けた。6月17日、淀川左岸にある支流の天野川の堤防が決壊、次いで枚方の三矢、伊加賀で淀川本流の堤防が三十間(約182m)にも渡って決壊したのを皮切りに、以後淀川左岸の堤防は各所で決壊。25日から始まった新たな暴風雨によって水は寝屋川に達し、その他の河川も水が溢れ出した結果、江戸時代の干拓で消滅したはずの深野池と新開池以上の大きな湖、かつての河内湖が地上に現れ出す始末であった。 これにより、大阪府下の北河内郡・中河内郡、東成郡及び大阪市街(現代の地名では、北は枚方市から南は東大阪市と大阪市のうち住之江区、東住吉区、住吉区、平野区以外の淀川以南の区)の約15269町歩(15142ha)、当時の大阪府全体の世帯数の約20%となる約71000戸が最大で約4mも浸水し、家屋流失約1600戸、同損壊約15000戸という甚大な被害が発生した。 大阪市内では大阪城~天王寺間の上町台地一帯を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は約27万人。天満橋・天神橋・難波橋の浪華三大橋も流され、安治川橋に至っては漂流物が橋に引っ掛かって川を堰き止める様子を見せたので急いで爆破した。こうして八百八橋とうたわれた大阪の橋は30余りが次々に流失し、市内の交通のほぼ全てが寸断された。 この間、大川の堤防をわざと決壊させ、そこからこの膨大な水を流してしまおうと「わざと切れ」と呼ばれる江戸時代から度々行われてきた方法をとることとし、現都島区の網島町にある大長寺(現在は藤田邸跡公園)横の堤防を切った。これにより、当初は大川から逆に水が入ってくることもあったが最終的に功を奏し、並行して行われていた堤防の修理の甲斐もあり、長い時間はかかったがここから大半の水が出て行った。 この洪水後、付近の郡は大阪府や国に淀川改修の誓願運動を起こし、やがて大阪府会も国に建議を提出。これらの運動が実りついに日清戦争後の1896年(明治29年)に淀川改修を加えた公共河川法案が成立し、淀川改修費の予算も成立、この年から淀川の改修工事が始められることとなった。 なお、御堂を流され、境内も荒れ果ててしまった大長寺(近松門左衛門の人形浄瑠璃、「心中天網島」の舞台)であるが、1887年(明治20年)頃に藤田伝三郎にその土地を売却し、寺は移転して再興を果たした。大長寺があったその地に伝三郎は網島御殿と呼ばれる邸宅を建てたが、現在は藤田美術館、藤田邸跡公園、太閤園、大阪市公館となっている。 近くの桜之宮公園にはこの洪水に関する石碑が建っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明治十八年の淀川洪水」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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