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明治天皇駐蹕御趾 : ミニ英和和英辞書
明治天皇駐蹕御趾[ちゅうひつぎょし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

明治 : [めいじ]
 【名詞】 1. Meiji era 
明治天皇 : [めいじてんのう]
 (n) Emperor Meiji
: [てん]
 【名詞】 1. heaven 2. sky 
天皇 : [てんのう]
 【名詞】 1. Emperor of Japan 
: [ちゅう]
 (pref) resident
: [ご, お, おん, み]
  1. (pref) honourable 2. honorable 

明治天皇駐蹕御趾 : ウィキペディア日本語版
明治天皇駐蹕御趾[ちゅうひつぎょし]

駐蹕御趾(ちゅうひつぎょし)〔「新修半田市誌本文篇 中巻」138頁 – 139頁 半田市発行〕は、愛知県半田市乙川源内林町の白山公園内に建てられた石碑である。明治23年(1890年3月31日明治天皇が第1回陸海軍大演習のため、この地から統監した。これを記念して明治35年(1902年)8月に村民有志の手で建立されたものである〔「半田市誌乙川地区誌編」68頁 半田市発行〕。
== 概要 ==
『駐蹕御趾』の碑は、公園の最も奥の歩道南側に建てられている。明治23年(1890年)3月30日から4月3日の5日間、西三河から名古屋東部にかけての地域を中心に第1回陸海軍連合大演習が行われた。その演習の2日目となる3月31日に、乙川白山付近から半田雁宿山にかけて東西両軍支隊の陸戦が行われた〔「半田市誌乙川地区誌編」68頁 – 69頁 半田市発行〕。
明治天皇は大演習の統監をすべく、最もよく東西両軍を見渡すことができる現在の白山公園の高台から観戦された。『駐蹕御趾』はまさに明治天皇が野立された地点に建立された。
これを記念して、その大盛事を後世に伝えようと、明治35年(1902年)8月に乙川村有志によって、このは建立された。碑の裏面には、碑建立の主唱者として乙川小学校長であった林和三郎の名前と、発起人として杉浦勝次郎、平野歌之助、庫ヶ入惣八、他17名の名が刻まれている。
碑銘は、江戸城無血開城の立役者で、明治政府枢密顧問官をしていた勝海舟揮毫によるものである。林校長の甥が勝海舟の門下生であったことによる縁で、揮毫を依頼したのである。碑陰の文は林校長自身の撰によるもので、書は東浦の書家・中川南厳のものである。
『駐蹕御趾』建立の地は、昭和9年(1934年11月1日に「史蹟名勝天然記念物保存法」第1条の規定に基づき「明治天皇乙川御野立所」として半田雁宿公園内の「明治天皇雁宿御野立所」と共に文部大臣から史跡指定を受けた。史跡指定を記念し建立された「明治天皇乙川御野立所碑」の題字は、当時内閣総理大臣であった斎藤實の書である。
:◎碑陰とは、石碑の裏面に記した文のことである。
【駐蹕御趾碑陰】〔「半田市誌文化財編」509頁 半田市発行〕
:明治廿三年三月  天皇親率陸海二軍大講武於尾參之間其兵凡三萬餘戰
:闘五日砲聲轟々天地爲震其三十一日 天皇御馬侵大雨馳驅戰陣之中來登白
:山社頭按轡而観焉嗚呼  聖徳乾健躬與士卒分艱苦駐蹕寒郷而不顧自此
:乙川民甘棠之情常不能忘也乃稱此地日駐蹕御趾意我邦自古以武建國
:而其所謂兵式者參之海外諸國而拔其萃夫廿七八年之役而後  皇威振於八紘
:者蓋非偶然也頃村民相謀欲建碑以表其趾永傳之後代因謹記其梗墍以勒石云
:明治三十五年八月建之
【駐蹕御趾碑陰文読み下し】〔「知多半島郷土史往来第1号」6頁 – 9頁 はんだ郷土史研究会発行〕
:明治23年3月、天皇は尾三の間に於ける陸海二軍の大講武を親率す。其の兵は凡そ3万余、戦闘は5日砲声は轟々とし為に天地は震える。其の31日 天皇の御馬は大雨を侵し、戦陣の中を馳駆し、白山の社頭に登り来り、 (くつわ) を按めて焉 (これ) を観る。嗚呼聖徳は乾健にして躬ら士卒と艱苦を分かち寒郷に駐蹕して顧みず。此れより乙川の民は甘棠 (かんとう) の情は常に忘れ能わざる也。乃ち此の地を称して駐蹕御趾と日う。意うに我が国は古より武を以て建国し、其の所謂兵式は之を海外諸国に参じて其の萃 (あつまり) を抜く。夫二十七八年の役爾後皇威が八紘に於いて振るうは蓋し偶然に非ざる也。頃 (ちかごろ) 村民相謀って建碑し、以て其の趾を表し、永に之を後代に伝えんと欲す。因って其の梗概を謹んで記し、以て云 (ここ) に石に勒 (ろく) す。明治35年之を建つ
碑陰文に出てくる「甘棠 (かんとう) の情」は立派な政治を行う人に対する敬愛の情のことで、古代中国ので善政を布いた召公が、甘棠という野生で梨に似た実のなる木の下で休んだので、人民がその木を大切にしたという故事からの譬えである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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