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明治女学校(めいじじょがっこう)は、1885年(明治18年)から 1909年(明治42年)まで、東京にあった女学校。 == 経緯 == 1885年、牧師の木村熊二が、九段下牛ヶ渕(現・千代田区飯田橋)に開校した。島田三郎、田口卯吉、植村正久、巌本善治が発起人となり、木村の妻で田口の姉の鐙子(とうこ)が取締役を務めたが、彼女は翌年没し、1887年、巌本が教頭になって実務を執った。 巌本は女学雑誌を主宰してもいたので、同誌への寄稿者、星野天知、北村透谷、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村、青柳有美らの若者が、教壇に立った。哲学の大西祝、心理学の元良勇次郎、国文学の大和田建樹、音楽の幸田延子、英語の津田梅子・若松賤子、医学の荻野吟子らも教え、富井於菟・新井奥邃・島田三郎・植村正久・内村鑑三(生物学)が講師を勤めた時期もあった〔1889年(明治22年)の『女学雑誌』173号には明治女学校の広告が掲載され、巌本善治、植村正久、木村熊二、木村駿吉、島田三郎、内村鑑三が記されている。鈴木範久1983年、48頁〕。 1892年、巌本が2代目校長となった。 巌本もプロテスタントだったが、校内で宗教的儀式は行わず、布教を教育に混ぜ込まなかった。そして、神の下で平等な男女が健全な家庭を営むための心構えを、生徒に躾けた。校舎も寄宿舎もボロ屋で、生徒の服装も質素だった。運営を話し合う評議会には、生徒も参加した。寄宿舎は自治制だった。全国から、良家の子女が集まった。大塚楠緒子は夫君の海外留学中に入学した。 学校は1892年、麹町区下六番町(現・千代田区六番町)に移転し、生徒数300の最盛期を迎えたが、教会や宣教師の経済的援助を受けなかったので、経営は楽でなかった。1896年2月、深夜の失火で、校舎・寄宿舎・教員住宅の大半を失った。焦眉の避難に、寄宿生の服装は乱れていなかったという。 焼け残った教室で残花、桜井鴎村らが授業を続けたのち、1897年(明治30年)、東京府北豊島郡巣鴨(現・豊島区西巣鴨二丁目)に校舎を新築した。1904年、巌本は校主に退き、教師で寄宿舎の舎監だった呉久美(呉文聰の姉)が校長になって支えたが、1909年に閉校した。 千代田区六番町三丁目1と豊島区西巣鴨二丁目14 - 11の故地に、記念の標識がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明治女学校」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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