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明田 弘司(あけだ こうし、1922年 - )は広島県呉市出身の写真家。原子爆弾の被害から復興する広島市を撮り続けた。 == 人物 == 呉市の劇場「弁天座」の4男として生まれる。戦時中、軍属として航空写真に従事。終戦後2ヶ月で帰国したが、呉市の生家は空襲で焼失、広島市の勤めていた会社は原子爆弾で焼失。大竹市の母方の実家に身を寄せることになったが、そこは営業写真館だった。 昭和22年に全日本写真連盟に加盟。昭和23年に広島市で現在のヒロシマ・フォト・サービスを開業し、D・P・Eと占領軍キャンプでのオーストラリア兵との撮影を業務とした。原子爆弾は全日写連の指導者たちや、会員の写真機材や暗室などの大半を一瞬で奪い取ってしまった。よって広島県の全日写連は活動停止の状態だった。昭和23年に全日写連の県本部委員になると同時に組織の再建を呼びかけたところ、梶川祐治ら約10人の同志が集まった。このグループでヒロシマ・フォト・クラブを結成し会長に就任。新生県本部の第一歩を踏み出した。 昭和30年頃出生地の呉市で福田全伸という同志をえ、呉支部が発足した。 昭和31年、県本部委員長と関西本部委員を兼任。 昭和40年には数年の努力の末、広島県美術展での写真部開設を実現させた。 昭和44年に県本部月例会をスタートさせ、その結果を毎月朝日新聞に紹介されるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明田弘司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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