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明眼院(みょうげんいん)は、愛知県海部郡大治町にある天台宗の寺院である。日本最古の眼科専門の医療施設として知られる。なお、現在医療行為は行っていない。 == 歴史 == かつて尾張国海東郡馬嶋村(まじまむら)と呼ばれていたこの地に、延暦21年(802年)に最澄の弟子である聖円が、。 南北朝時代に入ると、建武以後の争いの戦火で寺の大半が焼失して荒廃状態にあった。そこへ訪れた清眼(。 延文2年/正平12年(1357年)のある日、清眼が自房である蔵南房(同寺首座)で睡眠をとっていると、夢の中に異国人が現れて、眼病治療の秘伝と眼病に効く霊水の在り処を告げた。目を覚ますと、その傍らに眼科専門の漢方医学の書が置かれており、夢で示された場所に行くと、霊水が湧いていた。これを薬師如来の化身によるものだと考えた清眼は、その書を精読したところ、異国人が伝えた秘伝の意味が理解できるようになった。そこで自房を眼病患者のために開放して、眼科治療を始めることになったのだという。 当時の眼科の治療法としては、内服薬・薬液による洗眼・軟膏貼付・粉末撒布の他に鍼や烙法による簡単な手術などであった。それでも内障(当時は白内障や緑内障に限らず、硝子体や網膜の異常も含んだ)や結膜炎などの広範な治療に、効果を発揮していた。 その名声は朝廷にも伝わり、やがて永正15年(1518年)には朝廷の依頼を受けて、薬師寺の僧侶が後柏原天皇の眼病を治療する。次いで寛永9年(1632年)に後水尾上皇の皇女の眼病の治療にあたったことから「明眼院」の院号を賜った。明和3年(1766年)には桃園帝の第2皇子〔伏見宮貞行親王と思われるが、参考文献には記述が無い。〕の治療を行なったことから勅願寺の格式が与えられた。 、明眼院に治療に訪れたキリシタンが幕府や尾張藩の迫害を逃れていわゆる「キリシタン灯籠」を寄贈した。円慶らはその真意を悟ったものの、困窮するものを見捨てられないとして密かに安置することを許してこのことは明治維新まで寺の極秘とされていた。後に住持円海が桜町天皇の皇女の治療にあたったことから、明眼院の住持を権大僧正に任じた。 こうして、同院の名声は広まって全国各地から診察を求める患者が来訪し、大名の小堀政一(遠州)や画家の円山応挙、国学者の本居春庭(宣長の嫡男)なども同院で治療を受けたとされている。また尾張藩からも寺領として36石が与えられていた。 28世・円如は天保年間(1830年 - 1844年)初期に長崎に遊学してオランダの医学を学び、治療に取り入れるなどしたという。 なお、江戸時代の複数の記録では5~18坊の塔頭があったとされ、慶長13年(1608年)の尾張藩による最初の検地において、7坊の塔頭の存在が記録されている。郡村徇行記には18坊との記述があるが、これが正確なものかははっきりしない。これらの塔頭のうち、蔵南坊と大智坊の間で馬嶋流眼科の本統争いから藩への訴訟が複数回に渡って行なわれた記録があり、天保7年(1836年)に大智坊が敗訴して無住になったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明眼院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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