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小林 佐兵衛(こばやし さへえ、1829年(文政12年) - 1917年(大正6年)8月20日〔コトバンク(朝日日本歴史人物事典) ">小林佐兵衛 とは - コトバンク(朝日日本歴史人物事典) 〕)は、日本の侠客。 大坂・堂島の質屋「明石屋」の長男として生まれ〔ミニコミ紙「リージョン日経大阪」第123号 〕、北の赤万(明石屋万吉)との通称があった〔。 == 来歴 == 1830年(文政13年)に堂島中町船大工町の質屋、明石屋儀右衛門の養子九兵衛の長男として生まれる。幼名は万吉。〔「大阪人物辞典」 三善貞司 清文堂出版〕父は明井釆女という幕臣であったが大坂へ隠密として送られ、理由は不明だが帰参せず、世話する人があり明石屋の養子となった。釆女は算盤の道には疎く遊び好きなためにやがて養家から離縁され、金貸しを営むが大火により宮家御用の提灯が燃やされ生業の道を失う〔 「任侠百年史」 藤田五郎 笠倉出版社〕。 1837年、万吉の一家は北野村に移る。1839年、万吉は平野町「茨木屋吉兵衛」へ丁稚奉公に出るが父が出奔。翌年、万吉は北野村の庄屋に人別より外れる勘当を願い出て家出としてもらう。母と妹を食わせるために九歳で賭場荒らしを始める〔。1845年、15歳でひとかどの親分になると堂島の米相場の売り方より頼まれ、公儀お買い上げ米を潰す仕事を引き受けた。奉行所より数日間拷問を加えられたが一切、白状をしなかった。1852年、堂島の米価を引き上げる仲買に殴り込み市場を崩落させた〔。 1863年、播州小野藩より十五人扶持足軽頭になるよう頼まれ、これを引き受ける〔。背景として公武合体派の一橋慶喜が摂海の警備を任され、諸藩も大坂の河川警護を幕府より命ぜられるなか、一万石の小野藩が堀川から尻無川河口までを警護するのは困難であり万吉の勢力を見込んだものとされる。尻無川は伝安一家の縄張りであり、会津小鉄は万吉が伝安からシマを借りる見届け人となり会津の印である大瓢箪を二つに割り、万吉の一門は北瓢箪を印とした〔「会津の小鉄」 飯干晃一 角川文庫〕。 1873年(明治6年)、消防請負制の導入にともない、当時の大阪府知事・渡邊昇の要請を受け〔、府内の消防における「北の大組頭取」に就任。自主的に火事の罹災者を自宅に保護するなどの活動にも取り組んでいた。 1882年(明治15年)からは、幕府から大阪府に移行した粉河町の「お救い所」の仕事に携わる〔綱敷天神社 氏地 小松原町 ">綱敷天神社 氏地 小松原町 〕。 1885年(明治18年)12月19日、堂島米相場などで築いた私財を投じて〔、小松原町に「小林授産場」を開設。浮浪者や生活困窮者に教育・職業訓練をおこない、社会復帰・自立を支援した。また、病人や身体障害者も収容した。創立時の収容人員は190人(男30人・女160人)という情報もある〔。 1909年(明治42年)の「天満焼け」(「北の大火」)では、当時79歳の佐兵衛が防火活動を率いて、大阪天満宮を火から守ったという〔社団法人大阪市人権協会/ヒューパワー27号 大阪の新名所探訪記 大阪天満宮 〕。 1911年(明治44年)9月には、米相場の高騰で苦しむ人々のため、取引所へ乗り込んで相場を崩した〔。 晩年は、財産のほとんどを授産場の運営につぎ込んでしまい困窮したとも伝えられる〔。1912年(大正元年)12月17日、財団法人弘済会(大阪市立弘済院の前身)に〔おおさか・ふくし年表 - ウェルおおさか〕授産場を売却して引退した。 1917年(大正6年)8月20日没(89歳〔88歳という説もある。和歌山県高野山金剛峰寺奥の院に墓所があり、子分たちが建立したという「浪花侠客小林左兵衛」の銅像が残されている。 (大阪市北区役所「北区誌」49 )〕)。 後に、司馬遼太郎の小説『侠客万助珍談』と『俄・浪華遊侠伝』では、主人公のモデルとなった。また、宮尾登美子の小説『鬼龍院花子の生涯』では、最初の主人公の親分のモデルとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小林佐兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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