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明石 行雄/明石 景親 (あかし ゆきかつ/あかし かげちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備前国保木城主。 景親の諱で広く知られるが自著した書状は一通も存在しておらず、最近では確実な文書から実名は行雄であると比定されている〔藤井駿『岡山の歴史と文化』(福武書店、1983年 ISBN 4828826009〕。 == 生涯 == === 浦上家臣時代 === 備前国で浦上氏の家臣として浦上則宗の代から仕える備前明石氏の出身。父の名は源三郎景憲〔武元家所有『備前明石系図』〕であるとも言われるが確証は得られておらず今のところは不明である。 天文年間末からの浦上政宗と宗景兄弟の分裂において『備前軍記』では終始宗景に味方した股肱の臣として挙げられており、以後宗景に重臣として仕える。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では浦上方として宇喜多直家への援軍として駆けつけ勝利に貢献したという〔『備前軍記』〕。 永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部(いずれも現在の岡山県備前市内)の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時・服部久家・日笠頼房・岡本氏秀・延原景能と行雄の6人が行っている〔『来住家文書』〕。永禄12年(1569年)には10月には美作国で毛利氏に奪われた高田城の奪還を狙う三浦貞広を岡本らと共に支援して高田城代香川広景を攻撃した〔『森脇覚書』〕。 天正2年(1574年)から浦上宗景と宇喜多直家の対立が激化し、天神山城の戦いが開戦した際には宗景を支持し、情勢不利となっても宗景とともに天神山城に籠り交戦していたが、やがて抗い切れないと悟ると宗景を見限り天神山城に火を放った上で城内の一角を占拠し天神山城陥落のきっかけを作った〔落城時の詳細は『備前軍記』に詳しいが落城時期に誤りがあることが、田口義之「美作三星城主後藤勝基に就いて」(『岡山地方史研究』第55号、1987年)などで明らかにされている。〕。 この時、行雄の裏切りが天神山陥落に絡んだことは毛利氏の記録でも確認できる〔『神原文庫毛利氏関係文書』小早川隆景書状〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明石行雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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