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明節皇后(めいせつこうごう、1088年 - 1121年4月27日)は、北宋徽宗の(後期の)寵妃。皇后を追贈された。姓は劉氏。 == 生涯 == 庶民の出身であり、初め昭懐皇后劉氏(徽宗の兄哲宗の皇后)の侍女を務めた。政和2年(1112年)に昭懐皇后が崩じて、一時民間に帰った。翌年、楊戬の薦めで才人を授され、劉貴妃(明達皇后)と「母娘」の契りを結んだ。美人、婕妤となり、嬪に進み、貴妃にいたった。居酒屋の給仕人であった父の劉宗元は、興寧軍節度使に任じられた。22人の親友たちにも官職が与えられた。 容姿美しく機知に富んでいて、化粧と衣服のデザインにすぐれていた。徽宗の寵愛を受けて、安妃と称された。道士の林霊素は徽宗を「上帝長子」「長生帝君」、蔡京を「左元仙伯」、王黼を「右極仙卿」、劉氏を「九華玉真安妃」などと呼んだ。諸臣とともに遊宴にふけり、奢侈濫費を重ねて庶民を圧迫した。 民間に帰った頃、宦官何訢に一時引き取られていたが、その家では粗略に扱われたので常々それを恨んでいた。宮中で栄達の後、何訢とその一党を死に追いやった。 宣和3年4月2日(1121年4月27日)、瘧にかかって死去した。諡は初め明節和文貴妃であった。まもなく明節皇后を追贈され、徽宗の父神宗の永裕陵に従葬された。徽宗は哀感してやまなかったという。さらに、劉氏を嫉妬視し、寵愛が衰えた淑妃崔氏(1人の皇子と5人の帝姫の母)が廃位され庶人に落とされた。劉氏の医官ら一族も免職された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明節皇后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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