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星合 具泰(ほしあい ともひら〔「寛政重脩諸家譜. 第3輯」 による。本文は413-414頁、コマ番号は215-216頁。〕、永禄10年(1567年) - 寛永16年4月7日(1639年5月9日))は、戦国時代から江戸時代の武将、旗本。星合親泰から数えて3代目の星合家(北畠流)当主。幼名は亀寿丸。通称は采女正、勝蔵。法名は栄典。父は星合教賢、母は北畠具教の娘。妻は飯尾信宗の娘。子に星合具枚、星合具通、星合詮安、星合専来、星合具堯、ほか女子3人。 ==生涯== 永禄10年(1567年)、伯父の星合教房が逝去し、祖父の星合具種に養育される〔。当時具泰はわずか1歳だったため、父の星合教賢が軍代を務めた〔。元亀3年(1572年)、具種が死去し、その跡を継いで大河内城へ移り住む〔。天正4年(1576年)に三瀬の変で北畠具教が北畠信意に暗殺されると、具泰は大和国吉野にて蟄居した〔。 その後尾張国へ移住し、信意の嫡男織田秀雄に仕える〔。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の命令によって秀雄の家老となり、靑江の刀を賜った〔。さらに大阪への参勤、伏見への往還の使として河内国に300石を、秀雄からは牛原郷、安地美郷、花黒郷を任されてこれらを領した〔。 慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝征伐の兵を挙げ(会津征伐)、下野国小山に着陣した〔。信雄と秀雄父子の東軍加勢を家康に伝えるべく、村瀬重治と共に派遣された〔。2人が小田原付近へ至った時、石田三成の挙兵(伏見城の戦い)の知らせを受ける〔。2人は酒匂(さかわ)で相談し合い、重治は家康の下へ本来の内容を伝えに、具泰は信雄の下へ馳せ参じ、軍事行動を起こすべく上方へ上っていった〔。具泰が掛川城へ至った頃、城主の山内一豊は通行人を通さないよう指示していた〔。ここで具泰は知り合いの岩田某を通じて事の経緯を説明し、了承した一豊は自らの家人をつけて送り出し、具泰は2000の軍勢を引き連れて信雄の下に馳せ参じた〔。信雄は具泰に「今や多くの家臣が石田三成と内通しておる。わしは家康様に味方すべく彼らを無視していたところじゃ。そなたら2人の帰還を待っておった。」と言ったという〔。これを聞いて具泰は越前の秀雄の下へ赴き、青木一矩の軍勢を加えて大谷吉隆を討ち取り、秀雄への忠節としようと考え、即座に出立した〔。その後、越前の木ノ芽峠にて大谷の軍勢と出会う〔。具泰はこれを撃破しようと試みたが、彼の兵らに遮られ失敗し、そのまま秀雄の下へ赴いて前田利長の軍勢と合流した〔。この時山口正弘の篭る大聖寺城を陥落せしめている〔。 この後は秀雄に付き添って各地を転々とするが、慶長15年(1610年)に死別する〔。その後、慶長18年(1613年)に常陸国小田に1500石の領地を賜ったが、これに岡田利治が異論を唱え、本多正信に「具泰が信雄の家臣であった頃、彼の領地は村瀬重治の倍ありました。主君への忠節も重治と同等であります。重治は現在3000石も知行しているのに対し、具泰が1500石しか知行していないのはなぜでしょう。」と訴えた〔。正信は「後日言上する。」と返答したが、まもなく家康が死去、その後に正信も死去し、具泰の加増は実現しなかった〔。大坂の陣には安藤重信配下で出陣した〔。寛永8年(1631年)に書院番となり、翌寛永9年(1632年)にそれを辞して寄合となった〔。 寛永16年(1639年)死去、享年73〔。墓地は大円寺〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「星合具泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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