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星野 和平(ほしの わへい、1913年10月19日 - 1973年3月27日)は、日本の実業家、映画プロデューサーである〔講演「佐分利信を再見する 第3回アナクロニズムの会」 、木全公彦、2009年10月10日、アテネフランセ文化センター、2012年4月18日閲覧。〕。五社協定時代(1953年 - 1971年)以前の日本の映画界で「俳優ブローカー」として活躍したことで知られる。 == 人物・来歴 == 1913年(大正2年)10月19日、東京府(現在の東京都)の新井薬師に生まれる〔『1956 ダイヤモンド会社職員録』、p.48.〕〔。生家は質店であった〔。1928年(昭和3年)、旧制・尋常小学校を卒業する〔。白木屋(現在の東急百貨店)の呉服部員となり、マキノ光雄の妻と知り合い、1935年(昭和10年)に設立されたマキノトーキー製作所に入社する〔。 1941年(昭和16年)に戦時統合が行われ、日本全体の映画作品の製作本数、必要人員が削減された時代、星野芸能社を設立、杉狂児や宮城千賀子、嵐寛寿郎、黒田記郎、江川宇礼雄らの地方巡業を行う〔。 1946年(昭和21年)11月、東宝争議を原因に、大河内傳次郎、長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子が組合を脱退、「十人の旗の会」を結成、それがやがて新東宝設立に向かう。星野は星野芸能社で、原節子、佐分利信、木暮実千代、水戸光子、飯田蝶子、高峰三枝子、三浦光子、坂本武、宇佐美淳、徳大寺伸らのマネジメントを行い、映画会社に所属しない俳優を強力にブッキングする〔〔戦後の国民を熱狂させた永遠の処女 、映画演劇文化協会、2012年4月18日閲覧。〕。 1949年(昭和24年)、熊谷久虎、倉田文人とともに映画芸術研究所(芸研プロダクション)を発足、設立第1作『殿様ホテル』を倉田監督、主演河津清三郎で製作・配給する〔殿様ホテル 、キネマ旬報映画データベース、2012年4月18日閲覧。〕。同社の社長は熊谷、星野は倉田や佐分利信とともに取締役として名を連ねた〔。翌1950年(昭和25年)には、佐分利の監督・主演作『女性対男性』、同じく『執行猶予』を太泉映画(現在の東映)と提携製作する。太泉映画の合併と東映の成立を機に、芸研プロダクションを閉じ、東京プロダクションを設立する〔。同社の設立第1作は、1952年(昭和27年)5月29日公開の『離婚』(監督マキノ雅弘、配給新東宝)であった〔。同年、マキノ雅弘監督の『弥太郎笠 前・後篇』を、主演の鶴田浩二の会社新生プロダクションで製作、完成後に東京プロダクションの解散を発表する〔。 1954年(昭和29年)、製作を再開した日活の契約プロデューサーとなる〔。翌1955年(昭和30年)、渡辺邦男とともに新東宝に入社、渡辺が取締役製作担当(製作本部長)、星野は取締役撮影所長に就任する〔。同年12月29日、大蔵貢が社長に就任、渡辺も星野も取締役を辞任する。1956年(昭和31年)7月12日公開の『四谷怪談』を最後に、同社の製作のクレジットから名前が見えなくなる。 1973年(昭和48年)3月27日、死去する。満59歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「星野和平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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