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映画の父 : ミニ英和和英辞書
映画の父[えいが]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

映画 : [えいが]
 【名詞】 1. movie 2. film 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 
: [ちち]
 【名詞】 1. (hum) father 

映画の父 ( リダイレクト:D・W・グリフィス ) : ウィキペディア日本語版
D・W・グリフィス[でぃーだぶりゅーぐりふぃす]

D・W・グリフィス(David Wark Griffith、1875年1月22日 - 1948年7月23日)は、アメリカ合衆国映画監督俳優脚本家映画製作者である。
映画文法の基礎を築いた人物であり、様々な映画技術(モンタージュカットバッククローズアップなど)を確立して、映画を芸術的な域へと高めた。アメリカ映画初の長編映画『國民の創生』や『イントレランス』などの監督作品は彼の技術の集大成的な作品であり、現在でもアメリカ映画の名作として数えられる。また、女優のメアリー・ピックフォードリリアン・ギッシュなど数多くの映画人を輩出したことでも知られ、それらの功績から「映画の父」と呼ばれている。
== 生涯 ==
1875年1月22日ケンタッキー州ラグレーンジに生まれる(クレスウッド生まれの説あり)。父親は南北戦争の英雄ジェイコブ・ウォーク・グリフィス大佐である。彼は大きな農場を経営しており、州議会議員も務めていたが、戦後に没落し、グリフィスが10歳のときに亡くなっている。そのため少年時代は困窮を極めていたが、両親から高い教育を受けていた。
その後グリフィスはエレベーターボーイやルイビルの本屋の店員など様々な職を転々としていたが、慈善公演の舞台に立ったことから地方劇団に参加し、俳優として活動しはじめた。31歳のときにはニューヨークに進出し、1906年に女優のと結婚した。その一方で舞台の演出家を夢見ていたグリフィスは、戯曲や詩を書いて売りこんでいたが、金銭的に行き詰っていたため、1907年に自分の脚本をのエドウィン・S・ポーターに売り込んだ。脚本は不採用となったが、俳優として採用され、同年の『』の樵役で映画デビューを果たした。
このエジソン社で映画製作のノウハウを学んだが、自らの脚本が採用されないことに鬱々としていたため、1908年にに自分の脚本を持ち込んだ。すると会社は彼の素質を認め、グリフィスは妻とともにバイオグラフ社に入社することとなった。始めは妻とともに俳優として活躍する傍ら、数十本のシナリオを執筆した。同年6月、バイオグラフ社の撮影技師に誘われたことから、『』で監督デビューした。後に長編の大作を手がけさまざまな撮影技法を駆使していったが、デビュー作の『ドリーの冒険』は正味15分ほどの短編映画であり、映画はヒットした。以降バイオグラフ社の監督としてビッツァ―とのコンビで1913年までに450本以上の短編映画を手がけた。
デビュー作の『ドリーの冒険』は少女が誘拐され樽の中に入れられるが、その樽が川に落ちて流されていくというストーリーでまだワンシーンワンショット撮影による作品であった。1909年の『』は社会派劇で、金持ちの小麦の相場師と貧しい小麦農家を対比して描いている。同年の『』はインディアンの目線で白人との対立を描いている。1910年の『』『』は南北戦争もので、1911年の『』では悲劇的な作品も作っている。1912年にはカルフォルニアでロケを行った2巻物の『大虐殺』を発表しており、群衆場面においてロングショットの効果的な使用がみられる。
1913年、自身初の長編作品『』(別題:アッシリアの遠征)を製作するが、当時はまだ長編映画が普及しておらず、会社はこの作品をお蔵入りにさせた(長編映画も普及しだした翌1914年にこちらもお蔵入りにされていた『大虐殺』とともに公開された)。さらに会社はグリフィスに長編映画を製作させなかったため、グリフィスはバイオグラフ社を退社してハリウッドに渡り、ミューチュアル社と契約を結んだ。
1915年、ミューチュアル社のハリー・エイトケンとグリフィスが創設したエポック・プロデューシング・コーポレーションの出資で『國民の創生』を製作。KKKの誕生物語を南部白人の立場から描いた物語だったため、北部においては上映拒否されたり、黒人の差別描写で物議を醸したが、作品自体は大ヒットした。
同年7月、ミューチュアル社から追放されたエイトケンが配給会社トライアングル社を設立。マック・セネットトマス・H・インスとともに招かれたグリフィスは、トライアングル社傘下の製作会社ファイン・アーツ社の製作責任者となり、1916年に『イントレランス』を製作した。四時代の物語が同時並行的に描かれるという当時としては革新的な作品だったため、難解との評判を呼び、アメリカ本国では商業的に失敗した。しかし現在では映画史上最大の古典として語り継がれている。1917年、『イントレランス』の失敗などの影響で、トライアングル社は製作を中止した。
1919年チャールズ・チャップリンダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォードユナイテッド・アーティスツ社を創設、自由な映画製作を目指して『散り行く花』『東への道』などを発表していった。しかし、完璧主義者で保守的な映画製作を行ってきたグリフィスは、時代の流れにはついていけず、人気も凋落していった。
1930年に初のトーキーとなる『』を発表するも、翌1931年の『』は興業的にも批評的にも大失敗した。そしてこの『苦闘』がグリフィス最後の監督作品となった。この頃からすでにグリフィスは忘れ去られた存在となっていた。
1936年アカデミー賞特別賞を受賞。同年、妻のリンダと離婚。女優のイヴリン・ボールドウィンと再婚したが、1947年に離婚している。1938年全米監督協会賞名誉終身会員賞を受賞。晩年は酒浸りの生活を送っていたという。
1948年7月23日ロサンゼルスのホテルで脳溢血のため亡くなった。ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの6535番地に星が刻まれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「D・W・グリフィス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 D. W. Griffith 」があります。




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