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『春の祭典』(はるのさいてん、原題フランス語:''Le sacre du printemps'', 英語:''The rite of spring'' )は、ロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーがセルゲイ・ディアギレフが率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために作曲したバレエ音楽。1913年に完成し、同年5月29日に初演された。20世紀の近代音楽の傑作に挙げられる作品であり、複雑なリズムのクラスター、ポリフォニー、不協和音に満ちていて、初演当時怪我人も出る大騒動となったことで知られる。 == 作曲の経緯 == 1910年、ストラヴィンスキーは、ペテルブルクで『火の鳥』の仕上げを行っていた際に見た幻影(”輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式”)から新しいバレエを着想し、美術家ニコライ・レーリヒに協力を求めた。 『火の鳥』の成功後、バレエ・リュスのための新しい音楽を注文されたストラヴィンスキーがこのアイデアを披露したところ、ディアギレフやレオン・バクストもこのテーマに興味を示し、ディアギレフの手帳には、1911年度の上演予定作品として『牧神の午後』と『生贄(『春の祭典』)』が併記された〔バックル、前掲書、上巻212頁〕〔実際には『牧神の午後』の上演は1912年に延期された。〕。 ところが、同年9月末にローザンヌのストラヴィンスキーを訪問したディアギレフは、そこで聞いた作曲途中の『ペトルーシュカ』を気に入り、これを発展させてバレエにすることにしたため〔バックル、前掲書、上巻206頁〕、『春の祭典』は一時棚上げとなった。 1911年6月に『ペトルーシュカ』が上演された後、『春の祭典』の創作が本格的に開始された。ロシアに帰国していたストラヴィンスキーはレーリヒを訪ねて具体的な筋書きを決定し〔『自伝』51-52頁〕、レーリヒはロシア美術のパトロンであったテーニシェヴァ公爵夫人のコレクションから古い衣裳を借り受けてデザインの参考にした〔バックル、前掲書、上巻247頁〕。同じ頃に「春のきざし」から始められた作曲は〔小倉重夫『ディアギレフ ロシア・バレエ団の足跡』音楽之友社、1978年、198頁〕、同年冬、スイスのクレーランスで集中的に作曲が進められた結果、1912年1月にはオーケストレーションを除き曲が完成した。ストラヴィンスキーはこの年の春に演目として上演されることを希望したが、ディアギレフはこれを翌年に延期するとともに、大規模な管弦楽のための作品にするよう要望した。その後、モントローでオーケストレーションが進められ、1913年に完成した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「春の祭典」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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