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春日弘 : ミニ英和和英辞書
春日弘[かすが ひろむ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はる]
  1. (n-adv,n-t) spring 
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 

春日弘 : ウィキペディア日本語版
春日弘[かすが ひろむ]
春日 弘(かすが ひろむ 1885年明治18年)8月8日 - 1970年昭和45年)9月12日)は、長野県下高井郡穂波村佐野(現・山ノ内町)出身の日本の実業家。
住友本社理事、取締役。住友金属工業初代社長。ダイキン工業初代会長。JOC日本オリンピック委員会委員。1964年東京オリンピック大会組織委員会委員及び同財務委員。日本陸上競技連盟2代目会長。ヘルシンキオリンピック大日本選手団総監督。ローマオリンピック日本選手団長。大阪府公安委員長正四位勲二等瑞宝章国際陸連IAAF功労賞。
== 経歴 ==
この節の出典〔
長野県県会議員(第1回県議選~第4回県議選)を務めた春日与市の長男の春日喜一郎の長男として生まれる。春日与市は、約12キロに及ぶ引き水工事である屏風堰松代藩に一切費用を頼らず自己・有志資金のみで建造〔『広報ほくしん9号』〕した北信濃の名士で、その長男の春日喜一郎の代では、所有する田畑は60町歩(180000坪)、山林は現在の佐野の8割に達していた。春日家は北信濃の名門で松代藩真田氏より真田氏一族以外では特例である真田六文銭の家紋を下賜されている〔〔。
穂波小学校から旧制長野中学(長野県長野高等学校)に進学して卒業。旧制第一高等学校英法科を卒業後、東京帝国大学法科大学政治学科に入学し卒業。住友財閥の財閥グループ全てに対し統括指揮を行うホールディング会社である住友総本店に入社。住友財閥の基幹事業たる銅を主に扱い、昭和15年(1940年)1月 住友財閥の財閥グループ全てに対し統括指揮を行う住友本社参与に就任。同年4月、住友本社理事及び取締役に就任した。昭和16年(1941年)、住友金属工業の初代社長に就任。住友財閥では旧来、社長制度は住友本社以外に社長職は一切設けず、社長といえば住友吉左衛門の事であり、異例中の異例の就任人事であった。当時、住友財閥四天王の一人とされる。
東京帝国大学の陸上部仲間と日本陸上競技連盟を立ち上げ、大正12年(1923年)第6回極東選手権競技大会(大阪開催)の総務委員長に就任。皇族がスポーツの役員に就かれる事は、当時としては前例が全く無く空前の事で思いもつかない事だったが、春日弘(総務委員長)の熱意と、秩父宮雍仁親王昭和天皇の弟宮)のご理解により初めて宮内省を説得し、秩父宮雍仁親王を第6回極東選手権競技大会総裁に仰いだ〔『春日弘氏追懐録』〕。大正14年(1925年) 日本陸上競技連盟常務理事に、昭和4年(1929年) 日本陸上競技連盟副会長に就任し、昭和34年(1959年) 東大時代から日本陸上競技連盟を創設したメンバーの平沼亮三が没し、日本陸上競技連盟2代目の会長に就任。オリンピック関係では、昭和27年(1952年) 第十五回ヘルシンキオリンピック大日本選手団総監督に就任、昭和28年(1953年) JOC日本オリンピック委員会委員に就任、昭和35年(1960年) 第十七回ローマオリンピック日本選手団長に就任、昭和36年(1961年) 1964年開催の1964年東京オリンピック大会組織委員会委員、昭和39年(1964年)同財務委員に就任した。昭和45年(1970年)9月 正四位勲二等瑞宝章を授けられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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