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昭和の大恐慌 : ミニ英和和英辞書
昭和の大恐慌[しょうわ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

昭和 : [しょうわ]
 【名詞】 1. Japanese emperor (1926-1989) 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
大恐慌 : [だいきょうこう]
 (n) Great Depression
恐慌 : [きょうこう]
  1. (n,vs) panic 2. scare 3. consternation 

昭和の大恐慌 ( リダイレクト:昭和恐慌 ) : ウィキペディア日本語版
昭和恐慌[しょうわきょうこう]

昭和恐慌(しょうわきょうこう)は、1929年昭和4年)秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて日本経済危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌
第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊によって銀行が抱えた不良債権金融システムを招き、一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った〔田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、110頁。〕。
== 背景 ==
昭和恐慌の発端は、第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊にある〔。第一次世界大戦中は大戦景気に沸いた日本であったが、戦後ヨーロッパ製品アジア市場に戻ってくると1920年大正9年)には戦後恐慌が発生し、それが終息に向かおうとしていた矢先、1922年(大正11年)の銀行恐慌1923年(大正12年)には関東大震災が次々と起こって再び恐慌に陥った(震災恐慌)。このとき被災地の企業の振り出した手形日本銀行(日銀)が再割引して震災手形としたことはかえって事態の悪化をまねいている〔震災手形による悪化 〕。
また、第一次世界大戦最中の1917年(大正6年)9月、日本はアメリカ合衆国に続いて金輸出禁止をおこない、事実上、金本位制から離脱していた。アメリカは、大戦直後の1919年(大正8年)には早くも金輸出を解禁(金解禁〔金解禁とは、通貨の兌換を自由にし、国際間の金の移動を自由にすること。〕)し、金本位制に復帰した。しかし日本は、大戦後の1919年(大正8年)末には内地外地あわせて正貨準備が20億4,500万円にのぼり、国際収支黒字であったにもかかわらず、金解禁を行わなかった〔長(2004)〕。
1920年代には世界の主要国はつぎつぎに金本位制へと復帰し、金為替本位制を大幅に導入した国際金本位制のネットワークが再建されており、世界経済大衆消費社会をむかえ、「永遠の繁栄」を謳歌していたアメリカの好景気と好調な対外投資によって相対的な安定を享受していた〔〔大衆消費社会の到来は、T型フォードに代表される大衆車家電製品、ラジオ映画レコードなど新しいメディアジャズ音楽ディズニー映画の流行、クレジット通信販売の登場など、大量生産・大量消費を特徴とするアメリカ的な生活(''American way of life'')をもたらした。〕。
日本政府は、このような世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと機会を窺ったが、1920年代の日本経済は上述したように慢性的な不況が続いて危機的な状態にあり、また、立憲政友会が反対に回ったことから金解禁に踏み切ることができなかった〔。さらに1927年(昭和2年)には、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した金融恐慌(昭和金融恐慌)が起こり、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。1928年6月にはフランスも新平価(5分の1切下げ)による金輸出解禁(金解禁)を行ったので、主要国では日本のみが残された。このころ、日本の復帰思惑もからんで円の為替相場は乱高下したため、金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく、財界全体の要求となった〔。
このような状況下で成立した立憲民政党濱口雄幸内閣は、「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」と「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて登場、金本位制の復帰を決断し、日本製品の国際競争力を高めるために、物価引き下げ策を採用し、市場にデフレ圧力を加えることで産業合理化を促し、高コストと高賃金の問題を解決しようとした〔恐慌からの脱出 〕。これは多くの中小企業に痛みを強いる改革であった。浜口内閣の井上準之助蔵相は、徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金輸出解禁を行うことによって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理を図った。
1929年12月7日付けの大阪毎日新聞は「下る・下る物価 よいお正月ができるとほくそえむサラリーマン」という見出しで、金本位制復帰によるデフレを歓迎した〔岩田規久男 『日本経済にいま何が起きているのか』 東洋経済新報社、2005年、173頁。〕。
金本位制復帰後の当時の新聞記事の見出しでは「金融平穏無事」(大阪時事新報1930年1月12日)、「金解禁後の財界は至極良好」(大阪朝日新聞1930年1月22日)と礼賛されたが、一カ月後には「金解禁で産業界は高率操短〔操業短縮の意。〕時代」(中外商業新報1930年2月17-19日)、「一般物価に比し米価は甚だしく下落」(大阪朝日新聞1930年2月20日)といった新聞記事の見出しが出始めた〔上念司 『デフレと円高の何が「悪」か』 光文社〈光文社新書〉、2010年、180頁。〕。
昭和恐慌当時の代表的なメディアである新聞・総合雑誌では「不景気を徹底させよ」と勇ましいスローガンが飛び出していた〔田中秀臣・安達誠司 『平成大停滞と昭和恐慌〜プラクティカル経済学入門』NHK出版〈NHKブックス〉、2003年、173頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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