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是儀 : ミニ英和和英辞書
是儀[し ぎ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [ぎ]
 【名詞】 1. rule 2. ceremony 3. affair 4. case 5. matter 

是儀 : ウィキペディア日本語版
是儀[し ぎ]
是 儀(し ぎ、延熹年間〈158年-167年〉 - 赤烏年間〈238年-251年〉)は、中国三国時代の人物。字は子羽青州北海郡営陵の人。元の姓を「氏」という〔孔融が「『氏』は民の上が欠けたものだ。『是』に姓を改めるべき。」と是儀をからかったことがきっかけで是に姓を改めたという。〕。
== 生涯 ==
はじめ県の役人となり、のちに北海郡の役所で孔融に仕えた。戦乱が激しくなると、劉繇を頼って江東に移住したが、劉繇が敗北すると会稽に移り住んだ。
孫権の代になると、是儀は招かれて騎都尉に任命され、信任を受けて機密事項の処理を任せられた。呂蒙が関羽を攻撃する際、孫権からその計画の是非を問われた是儀は全面的に賛同し、是儀自身も荊州の関羽討伐戦に加わって功績を挙げた。この功績によって是儀は忠義校尉の官位を授けられた。是儀は辞退を申し出たが、孫権は公式の命令書を送り、その中で「私は趙簡子ほどの立派な人物ではないが、あなたに周舎になってもらえぬという事はあるまい。」と諭したため、是儀は辞退を撤回した。
荊州が平定されて武昌に都が置かれると、是儀は裨将軍の官位を授かり、後に都亭侯に封ぜられて侍中の職を代行した。孫権は更に兵士を与えようとしたが、是儀は自身に軍事的な才能がないとしてこれを固辞した。
黄武年間(222年229年)、皖に派遣されて将軍の劉邵のもとで曹休を誘き寄せる計画を練り、誘き寄せられた曹休を散々に打ち破った。この功績で是儀は偏将軍に昇進し、尚書の事務全般の処理にあたって広く諸省庁の間を取りさばくと同時に、訴訟沙汰の処理にもあたった。加えて皇族や貴族の子弟たちに対する学問係にあたることも命ぜられた。
是儀は後に太子となった孫登の補佐にあたった。孫登は是儀に十分な敬意を払い、なにか事を起こす場合は必ず是儀に意見を求め、その後に実行に移した。その功績が認められ、爵位が進んで都卿侯に封ぜられた。孫登と共に建業に戻ると是儀は再び侍中・中執法に任ぜられ、再び官署間の取りさばきや訴訟の処理にあたった。 
典校郎の呂壱が、元の江夏太守の刁嘉が国政を誹謗していると誣告した。すると孫権はそれを聞いて怒り、刁嘉及びその関係者を獄につないだ。皆は呂壱を恐れて誹謗の言葉を聞いたことがあると証言したものの、是儀だけは聞いたことがないと答えていた。孫権は是儀に対する窮問は激しくなっていたが、「ただいま臣(わたくし)の首には斬刑の道具が既に当たってるような状況です。どうして刁嘉のために事実を隠して、みずから一族皆殺しの刑を招き不忠の死を遂げる必要がありましょうか?考えてみるに、もしその件を見聞きしているのであれば、その発言を知るに至った経緯があるはずでございます。」と言い張ったために孫権はとうとう是儀を許し、刁嘉も罪を逃れることができた。
蜀で諸葛亮が死去すると、孫権は蜀への使者として是儀を任命した。是儀は蜀との同盟と友好の関係をこれまで以上に固め、孫権の期待通りの働きを見せたため、後に尚書僕射の官を授けられた。
のちに孫登が亡くなり、太子となった孫和の官僚組織である南宮と、魯王となった孫覇の官僚組織である魯宮が設置され、是儀が魯王の傳も兼ねるようになった。是儀は南宮と魯宮が近接した位置にあることに対して危惧を抱き、魯王はその才を生かして国家防禦の盾として上下の秩序を正すべきだ、という意見を幾度も上書した。是儀は傳として忠誠を示し、事あるごとに主君を諌め正した。上に仕えてはその職務に励み、人々とは尊敬の念をもって交わったのであった。
是儀は時事問題に関しては何の意見も述べず、優柔不断な態度をとることが多かった。孫権はその態度を責めたが是儀は答えていった。「聖王が上におられ、臣はその下で職務にはげんでおりますのであって、ただ惧れますのは十分に任務が果たせますかどうかだけであり、愚かなせまい視野の意見を申し上げて、主君のお耳を乱そうなどとはつゆ考えぬのでございます。」
是儀は国家の職務にあたること数十年であったが、一度の過ちも犯さなかった。呂壱が将軍や宰相、重臣達を次々と弾劾したときであっても、是儀だけは上言されるようなきっかけがなかったという。孫権は賛嘆して言った。「もし人々がみな是儀のようであれば、刑法など無用のものとなるのであるが。」
病気が重くなったとき、遺言で白木の棺を用いて平服のままで入館し、葬儀はなるべく倹約につとめるよう命じた。享年八十一歳で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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