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是川銀蔵(これかわ ぎんぞう、 1897年7月28日 - 1992年9月12日)は日本の事業家、投資家、相場師、慈善家。最後の相場師と呼ばれた〔木下 4-6、250ページ〕。 == 略歴 == 兵庫県赤穂市の貧しい漁師の七人兄弟の末っ子、小山銀蔵として生まれる〔木下 24、32ページ〕。小山の家は赤穂では有名な旧家であったが、明治維新で没落した。一家は3才の時に神戸へ転居し、尋常小学校を卒業した後、14歳で貿易商の好本商会の丁稚となる〔木下 32ページ〕。1914年に好本商会が倒産すると、ロンドンを目指し出国するが、中継地の中国の大連に着いたときに第一次世界大戦が勃発した。日本軍が山東半島の龍口に上陸したため、軍との商売を目指して龍口へ移った。軍が青島へ向かうと徒歩で追いかけた。途中で金がなくなり生死を彷徨いながらも軍の出入り商人となり、貿易会社小山洋行を設立した。食料品や桐を扱って利益を上げたが、軍の高官に対して饗応を行った為、1915年に贈賄容疑で憲兵に逮捕された。未成年であったこと等を理由に無罪となり、日本へ帰国した〔木下 27-33ページ〕。 約半年後、再び青島へ渡り現地の通貨である一厘銭を両替し、金属資源として売却する商売を始める。一厘銭は亜鉛・銅・鉛の合金であり、戦争による金属資源の高騰から2倍以上の価値で売れたため、大きな利益を上げた。しかし、1916年に孫文を支援する日本軍に貸した3万円が返済されなかったことと、12月にドイツからの講和の打診により相場下落の影響で倒産した。〔木下 34-37ページ〕 日本に戻り姉婿の縁で龍野市で貝ボタンの工場を経営していたが、自由に活動するために工場を兄に譲り1919年に大阪へ移った。伸鉄工場を作り、亜鉛メッキ工場を買収して大阪伸鉄亜鉛メッキ株式会社を作り、260人の従業員を雇用するようになった〔是川 81-86ページ〕。1923年に関東大震災の一報を受けるとバラックの需要を見越してトタン板と釘を買占め、巨利を得た。この取引で得た利益は他人の不幸によるものとして、半分を大阪府へ寄付した〔木下 37-41ページ〕。 1927年に昭和金融恐慌が発生し、預金している銀行が破綻したことなどから倒産してしまった。債権者達は理解があり、事業の継続を支持したが是川は経営を債権者に任せて引退した。恐慌を経験したことから資本主義に対して懐疑的になり、3年間図書館に通い詰めて世界情勢、投資理論を独学した。その上で恐慌は景気循環によって生じる予測可能な変動であるとして資本主義の仕組みは衰退しないと判断した〔木下 41-44ページ〕。 1931年、34歳で70円を元手に大阪株式取引所で株式投資を始め、年末までに7000円に増やした〔当時の物価は土地つき1軒家が約1000円程度〕〔木下 44-46ページ〕。1933年に大阪堂島で「昭和経済研究所」(後の是川経済研究所)を設立し、研究と指導を行った。商品先物を扱う大阪三品取引所では1935年に綿の世界的凶作を見越して綿を買い、売りに回った昭和綿花株式会社の駒村資平と仕手戦を数ヶ月続けた。買い方が優勢で約300万円の利益があったが、解け合いを断った後に相場が反転し、逆に1万数千円の損失を受けた〔木下 46-51ページ〕。 各国の経済動向の調査から、アメリカ、イギリス、ソ連が水面下で極東に向けた軍拡を行っていることを予測し、軍・財界・マスコミへ警告を行った。当時は米英との親善外交が主流であり憲兵隊などから取調べを受けたが、企画院の沼田多稼蔵の理解を得て陸軍へ進言するようになった〔木下 51-53ページ〕。1938年に朝鮮半島東部・江原道に是川鉱業を設立。これを短期間で軌道に乗せた後、1943年には是川製鉄株式会社を設立させ従業員1万人を雇用する朝鮮有数の大企業となった。朝鮮総督だった小磯國昭との知遇から、1944年の小磯内閣誕生の際には入閣要請を受けたが、断った〔是川 149-151ページ〕。戦後、国策会社のオーナーであるため、新生朝鮮の警察に逮捕されてしまう。処刑を覚悟するが、朝鮮人を平等に扱っていたことから、嘆願運動に発展し、釈放される。 戦後は1960年に大阪府の泉北ニュータウン開発でも土地投機を行い3億円を得て、株式相場への復帰資金を攫む。 相場師として市場で話題となったのはすでに晩年となった昭和50年代に入ってからで1976年の日本セメント、1979年の同和鉱業、1982年の不二家、1983年の丸善石油、平和不動産の株買い占め、仕手戦で名前が知られた。最も良く知られたものは1981年から1982年にかけての住友金属鉱山の仕手戦であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「是川銀蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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