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晏 紫(ヤン・ツィ、ピン音表記: ''Yan Zi'' , 1984年11月12日 - )は、中華人民共和国・四川省成都市出身の女子プロテニス選手。同僚の鄭潔とペアを組んで、2006年の全豪オープンとウィンブルドン女子ダブルスで優勝を飾り、中国のテニス選手として最初の4大大会優勝者に輝いた。WTAツアーでは、ダブルスで4大大会2勝を含む17勝を挙げ、シングルスでも1勝がある。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ち。自己最高ランキングはシングルス40位、ダブルス4位。身長171cm、体重55kg、右利き。 == 来歴 == 2002年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップの中国代表選手となり、国外のテニス大会に活動の場を広げる。同年5月に福岡のトーナメントで初来日し、本戦の2回戦に進出した。2003年2月にプロ転向。2003年には「ジャパン・オープン」でベスト8進出があるが、この時は準々決勝で同僚の鄭潔との“中国対決”に敗れている。シングルスは鄭潔ほど得意ではないが、ダブルス優勝を果たした2006年の全豪オープンで初めての本戦出場を果たし、2回戦に勝ち進んだ。これで晏紫もシングルスで世界ランキングトップ100位以内の選手になった。 2004年のアテネ五輪でテニスの中国代表選手に選ばれた時、女子ダブルスには晏紫&鄭潔の組と、李婷と孫甜甜組の2組を送り出した。このアテネ五輪では李婷&孫甜甜組が女子ダブルスの金メダルを獲得し、中国に初めてのテニス金メダルをもたらした。それから1年半後、2006年の全豪オープン女子ダブルスでは、晏紫&鄭潔の組が第12シードから勝ち上がった。2人のダブルスは、リターンの時に「2人とも後ろに並ぶ」スタイルで、世界の標準的なダブルスとは大きく異なる。これが対戦相手を戸惑わせ、2人は準決勝で浅越しのぶとカタリナ・スレボトニク(スロベニア)組に 6-2, 7-6 で勝ち、決勝では第1シードのリサ・レイモンド(アメリカ)&サマンサ・ストーサー(オーストラリア)組を 2-6, 7-6, 6-3 の逆転で破り、中国に史上初のテニス4大大会タイトルをもたらした。 その後、ウィンブルドンでも中国テニス界は大きな躍進を見せる。晏紫は女子シングルス1回戦でアンナ・チャクベタゼ(ロシア)に敗れたが、鄭潔とのダブルスで2度目の4大大会決勝に勝ち進み、ビルヒニア・ルアノ・パスクアル(スペイン)&パオラ・スアレス(アルゼンチン)組を 6-3, 3-6, 6-2 で破り、中国のテニス選手として最初のウィンブルドン優勝者になった。 ウィンブルドン選手権の後、7月15日-16日にかけて女子テニス国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ・プレーオフ」が中国の首都北京で開かれ、中国はドイツを「4勝1敗」で下して2007年度のワールドグループ出場権を獲得した。晏紫は最終第5試合で鄭潔とのダブルス戦に勝利を収め、中国にとって初めてのワールドグループ進出に大きく貢献した〔Fed Cup - Tie details - 2006 - China, P.R. v Germany 〕。 しかし2007年全豪オープンでは、晏紫と鄭潔は女子ダブルス準決勝で台湾ペアの詹詠然&荘佳容組に 3-6, 4-6 で敗れ、大会2連覇を逃した。 2008年8月、晏紫と鄭潔は地元開催の北京五輪で女子ダブルスの銅メダルを獲得した。準決勝でスペイン代表のビルヒニア・ルアノ・パスクアル&アナベル・メディナ・ガリゲス組に 4-6, 6-7 で敗れた2人は、準決勝敗退ペア2組による「銅メダル決定戦」でウクライナの姉妹ペア、アリョーナ・ボンダレンコ&カテリナ・ボンダレンコ組に 6-2, 6-2 のストレート勝ちを収めた。 2009年12月に晏紫は結婚した〔晏紫嫁入豪门 与玻璃大王之子李圣根完婚 〕。2011年5月のブリュッセル大会のシングルスで予選敗退した試合を最後に公式戦から遠ざかり、晏紫は2012年1月17日に長女を出産している〔晏紫香港喜得千金升级做妈妈 老爸称其有复出可能 〕。2012年9月の広州国際女子オープンのダブルスから復帰している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「晏紫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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