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(n) Franco-Prussian War =========================== ・ 普 : [ふ] 【名詞】 1. widely 2. generally ・ 普仏戦争 : [ふふつせんそう] (n) Franco-Prussian War ・ 仏 : [ほとけ] 【名詞】 1. Buddha 2. merciful person 3. Buddhist image 4. the dead ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦争 : [せんそう] 1. (n,vs) war
普仏戦争(ふふつせんそう、、)は、第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争である。ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。なお、プロイセン=フランス戦争と呼称している日本の世界史の教科書もある〔『詳説世界史』(山川出版社。2002年4月4日 文部科学省検定済。教科書番号:81山川 世B005)p 229に「フランスのナポレオン3世はプロイセンの強大化をおそれ, スペイン王位継承問題をきっかけに, 1870年7月プロイセン=フランス戦争をはじめたが, 9月にはフランス北部のスダン(セダン)で捕虜となり, 第二帝政は廃止された。」と記載されている。〕。 プロイセンは北ドイツ連邦と南ドイツのバーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国と同盟を結んで、全ドイツを挙げて戦争に臨んだ。戦争はプロイセン側の圧倒的勝利に終わり、プロイセンを中心にしたドイツ統一が達成され、ドイツ帝国が成立した。対してフランスでは自らも捕虜となったナポレオン3世の権威が完全に失われ、第二帝政は終焉を迎えて第三共和政に移行した。 戦争はスペイン王位継承問題でプロイセンとフランスの対立が最高潮に達した時に発生した。ドイツ首相ビスマルクはエムス電報事件でフランスとの対立を煽り、激昂に駆られたフランス国民の支持を背景にフランスは戦争を始めた。ドイツ諸邦の参戦を恐れたフランスは7月19日にプロイセンのみに宣戦したが、ドイツ諸邦は自発的にプロイセン側に立って参戦した。野戦砲と鉄道輸送を巧みに活用したプロイセン軍の精強さは、ドイツ国境に侵攻したフランス軍を叩きのめした。防戦一方となったフランス軍は9月2日にセダンの戦いで包囲に置かれ、10万人のフランス兵と皇帝ナポレオン3世が降伏した。 ナポレオン降伏後は第二帝政政府に代わり、第三共和政政府(臨時政府)が戦争を指導することになった。だが新たに編成されたフランス軍も帝政時代と同じくプロイセン軍に一蹴され、5ヶ月間の北フランス攻撃を経て、1871年1月28日に首都パリを占領された。パリ陥落の10日前にプロイセン王ヴィルヘルム1世は征服したフランスのヴェルサイユ宮殿で盛大な戴冠式を行い、ドイツ皇帝に即位した。パリ占領後の1871年5月10日、フランクフルト講和条約が締結され、正式にフランスはプロイセンに降伏した。 ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドが1817年に設立したロチルド・フレール(de Rothschild Frères ロスチャイルド兄弟とも)は、50億フランにのぼる賠償金を支払うためのシンジケートを組成した〔Ran Aharonson ''Rothschild and Early Jewish Colonization in Palestine'' Rowman & Littlefield Publishers 2000 p.53. 注1〕。 == 背景 == 普仏戦争の原因は、ドイツ統一にまつわる幾つかの事件にその根源があった。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)はプロイセンの勝利に終わった。戦争の結果、プロイセンは多くの領土を併合して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばし、またドイツ諸邦を連合する北ドイツ連邦を主導した。こうして新たに強い勢力が生まれることは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1815年)で決められたヨーロッパのパワー・バランスが崩れることを意味していた。当時のフランス皇帝ナポレオン3世は、フランスにとっての戦略的な要地の安全を確保するため、ベルギーやライン川左岸における領地補償を要求したが、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは、にべもなくこれを拒否した。これはライン川流域に近いフランスにとって直接の脅威となった。 次にプロイセンはドイツ南部に目を向け、ドイツ南部の諸王国(バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国)をプロイセンが主導する統一ドイツ国家の中に取り込むことを画策した。プロイセンが南ドイツ諸国を併合すれば、プロイセンの軍事力は強大化するため、フランスはプロイセンの南ドイツ併合に強く反対した。 プロイセンでは、大きな統一ドイツ帝国を作るためには、ドイツ南部諸国においてドイツ民族としてのナショナリズムを呼び覚ます必要があり、そのためにはフランスとの戦争が不可避かつ不可欠であると分析判断していた。この狙いはドイツ宰相ビスマルクの次の言葉によく表れている:「統一ドイツが出来上がるためには、その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」。ビスマルクは、南ドイツ諸邦をプロイセン側に引き込み、それによってドイツ側の数的優位を確保するためには、フランスが侵略者と見なされねばならないこともよく認識していた。また、多くのドイツ人は、歴史的にフランスがヨーロッパを不安定化させてきたと見なしており、平和を乱さないためにはフランスの力を弱める必要があると考えていた。 これとは別に、戦争の直接的な要因は、1868年に混乱の末に空位となっていたスペインの王位にプロイセン王の親戚(ホーエンツォレルン家)レオポルトが推挙された事にある。プロイセンとスペインがホーエンツォレルン家の領国となれば、フランスは東西から挟まれる形になるため、フランスはこれに強く反発した。フランスの外交的圧力により、ホーエンツォレルン家からの推挙は取り下げられた。しかし、フランスとの開戦準備を進めていたプロイセン宰相ビスマルクは、この問題を煽ってフランス側から宣戦させることを狙って、この事件をめぐるプロイセン王ヴィルヘルム1世からのフランスとの交渉報告電報を、”フランス大使の非礼な要求に立腹したプロイセン国王がフランス大使を強く追い返した”ように編集して、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。ヴィルヘルム1世が温泉保養地バート・エムスに滞在中であったことから、これをエムス電報事件という。 エムス電報事件に刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は翌日7月15日に動員令を発令。翌日にはプロイセンも動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない電撃的な速さで、フランスはプロイセンに宣戦布告した。外交的な問題に加えて、ナポレオン3世と首相エミール・オリヴィエは国内的な政治問題を解決する必要性からも、宣戦の必要があると考えた。 一方、南ドイツ諸国は直ちにプロイセン側に立った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「普仏戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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