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福田 英子(ふくだ ひでこ、慶応元年10月5日(1865年11月22日) - 昭和2年(1927年)5月2日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての社会運動家。婦人解放運動のさきがけとして知られ、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称された。旧姓は景山。 ==来歴== 岡山藩の下級武士景山確の娘として生まれる。教育熱心な家庭に育ち、幼少のころより利発で、15歳で小学校の助教員を任じられ〔〕、そののち、母兄とともに私塾を開いて子弟の教育を志す。 18歳の時、岸田俊子(中島湘烟)の演説に触発されて自由党に接近、朝鮮改革運動に参画して爆発物運搬などに協力して投獄される(大阪事件)。 大阪事件の前年明治17年(1884年)、蒸紅学舎の閉鎖事件によって、専制政府の弾圧を身をもって感じた英子は、一身をささげて戦おうと決意し、母にも真相を告げず故郷を出奔して大阪へ走った。親戚藤井方に身を寄せ、当時自由党のシンパサイザーとして有名であった大和の豪農土倉庄三郎を銀水楼に訪ねた。東都遊学の資金を援助してもらうためであった。その頃、自由党解党の大会が北野大融寺で開かれ、当時の有名な自由党の人士が続々と下阪してくることを英子はかねて知っていた。しかし土倉には会えず失望しているうちに、小林樟雄が下阪してきた。小林は英子から本心をうち明けられ、志のかたく動かないのを察して、自由党総理板垣退助に紹介した。板垣は志を深く賞していっさいの面倒をみることを約し、おくれて下阪した土倉にすすめて英子の学費を出資させ、東京における保護者として、坂崎紫瀾にいっさいを依頼することになった。 大井憲太郎と内縁状態になり一子をもうけるが別れ、万朝報記者福田友作と結婚し、3人の子をもうけるも貧窮の死別。福田の元書生で石川三四郎と交際した。また、その間に大井に女子実業学校、角筈女子工芸学校を設立する。 内村鑑三の角筈の自宅で行われていた角筈聖書研究会に出席し聖書を学ぶ。しかし、1907年に、社会主義に批判的であった内村から突然聖書研究会への出席を拒否された。直後、福田は1907年3月15日の『世界夫人』6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書き、社会主義とキリスト教の神の摂理は一致しているのではないか。また、心霊上の及第にまさって物界の救助をはかることが、神の真意にかなうものではないかとのべて、内村に対し教示を求めた。〔鈴木範久(1983年)152-153ページ〕 自由民権運動がその勢いを失うと、幸徳秋水、堺利彦らの平民社に参加し、社会主義運動に身を投じる。平民社が解散した後も、石川や安部磯雄らと月刊新聞『世界婦人』を発刊して主筆となるなどの言論活動を展開したが、晩年は恵まれなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福田英子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fukuda Hideko 」があります。 スポンサード リンク
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