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景山 龍造(かげやま りょうぞう、文化14年(1817年)4月 - 明治5年8月18日(1872年9月20日))は幕末の武士(鳥取藩士)、儒者。幼名は礼太郎。諱は守正。字は雍卿。号は道村。従五位。 父は医者・儒者であり優れた教育者だった景山粛。 == 略年譜 == *文化14年(1817年) :4月 - 会見郡中野村(現・鳥取県境港市中野町)に木島立碩(景山粛)の子として生まれた。 *16歳で鳥取の芝田温に、18歳で大坂の摩島松南に学んだ。 *20歳で江戸の昌平黌に入り、次いで梁川星厳の塾に入って詩を学んだ。 *天保13年(1842年) : - 京へ移り吉益北州の門に入り医学を学んだ。 *弘化元年(1844年) : - 三条実万に知られ儒をもって身を立てるよう勧められ、公子の侍読となった〔『鳥取藩史1藩士列伝』に「弘化元年、偶々三条実万卿の知る処と成り、卿龍造に儒を以て立つ可きを勧め、二年学習院の経理を佐けしめ、並に其公子の侍読たらしむ」と記す。公睦・実美の二子のうちの一人はのちの維新の元勲と称される三条実美である。父の遺志を継いで尊王攘夷運動、討幕運動の苦節の道を維新まで歩み続けた公卿である。龍造が三条家に仕えた時実美は9歳の少年であった。侍読は「じどく」、「じとう」とも読み、そば近くにあって書を講ずる学者をいう。維新後太政大臣となり新政府の中枢となった三条実美の少年期の精神形成に龍造の人柄と教養は何らかの影響を与えたことであろう(『境港市史 上巻』昭和61年、441-442頁)〕。2年で此処を辞して大坂堂島に塾を開く。 *安政元年(1854年) : - 召されて藩校尚徳館教授に任じられ士に列した。〔尚徳館教授に任じられた年について、『境港市史 上巻(昭和61年)』438頁、『鳥取県百傑伝』537頁には“安政元年(1854年)”、『境港市史 下巻(昭和61年)』では“嘉永5年(1852年)”となっている〕。 *文久2年(1862年) : - 探索係として入京し朝廷、藩庁間の周旋に努める。 *慶応4年(1868年) : - 学校文場学正格式諸奉行 隠岐鎮撫の責を果たす。 *明治5年(1872年) :5月 - 教部省出仕を拝命したが、翌月辞任。 :8月18日 - 東京猿楽町にて没す。墓は境港市中野町正福寺の北側、景山家墓地。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「景山龍造」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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