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景文 ( リダイレクト:松村景文 ) : ウィキペディア日本語版 | 松村景文[まつむら けいぶん] 松村 景文(まつむら けいぶん、安永8年(1779年) - 天保14年4月26日(1843年5月25日)は、日本の江戸時代後期に活躍した絵師。字は子藻、号は華渓、通称要人、直二。 == 概要 == 四条派の祖・呉春(松村月渓)の異母末弟にして弟子で、早くから呉春について学んだ。四条に住み、妙法院に出仕した。 呉春の画風を受けつぎながらそれを一層洗練させ、デッサン力をしっかりと堅持しつつ、筆致は軽く、余白を増やし、柔和で淡白な作風が特徴である。より装飾的、耽美的になった景文の作品は、大衆層に床うつりが良い無難な掛物として非常な人気を得ることになった。景文の死後あまりに多くの贋作が世に出回ったため、これを憂いた門人、横山清暉、磯野華堂、富田光影、森義章、八木奇峰ら5名が互いに師の偽筆を作らないことを確認し合った弘化2年(1847年)の誓約書が残されている程である〔逸翁美術館蔵。(中村傳三郎 「四条派研究 「松村家略系」と呉春・景文伝」、『美術研究』216号、1961年、所収。榊原(1978)pp.498-500)。〕。ここで5名は、作品を書き損じや無落款のまま世間に出さないことを誓っているが、逆説的に考えると、無落款や書き損じでも世間に出せば師の作品と認められた事実を表しており、如何に彼らの様式・筆法が師に似ていたかを物語っている。 また、呉春が日本的山水画に長じたのに対して、景文は日本的花鳥画の写生を得意にした。同門の岡本豊彦と比較され、「花鳥は景文、山水は豊彦」と評された。四条派が日本画壇の中で大きな位置を占めるようになったのも、同門の岡本豊彦とともに景文の力が大きかったと思われ、四条派は呉春を経て景文によって様式が確立したといわれる。反面、景文の画風は大画面には不向きで、景文は呉春の一部分しか受け継ぐことが出来なかったと言える。 天保14年4月26日(1845年5月25日)に歿し、京都北山金福寺に呉春のそばに葬られた。
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