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景浄 ( リダイレクト:大秦景教流行中国碑#景浄 ) : ウィキペディア日本語版 | 大秦景教流行中国碑[だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ]
大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)は、明末に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑。ネストリウス派(景教)の教義や中国への伝来などを刻す。唐代781年(建中2年)に伊斯が建立した。碑文は景浄。古代キリスト教関連の古碑ということで世界的に有名。現在西安碑林博物館に保管されている。 == 概略 == 431年にエフェソス公会議で異端として禁止されたネストリウス派は、西アジア・中央アジアに伝播。そのころ唐は西方に国威を伸長しており、635年(貞観9年)阿羅本という者が始めて景教を中国に伝えた。それから約150年間、不遇の時代もあったものの王朝の保護もあり隆盛。781年(建中2年)に中央アジアバルフ出身で唐に登用された伊斯という人物がこの記念碑を長安の大秦寺に建立、景教の教義や中国伝来の歴史を残した。しかし、9世紀半ばに即位した武宗は道教に傾斜し、仏教をはじめ他の宗教を弾圧(会昌の廃仏)。景教も例に漏れず弾圧を受け、多くの大秦寺が破壊される。その際に碑は土中に埋没したと考えられている。 出土したのは、埋没から約800年後の明末の長安。異説もあり年代ははっきりしないが、1623年(天啓3年)または1625年(天啓5年)出土というのが有力。明末の陽瑪諾(洋名Emmanuel Diaz)の『唐景教碑頌正詮』の序には「大明天啓三年」とある。出土の状況は、ポルトガルのイエズス会士セメド(Álvaro Semedo、漢名魯徳照)の『支那通史』〔Semedo; The History of China. p. 157。〕に記されている。出土から30年足らずで少なくとも3ヶ国語8種類の碑文の西洋語訳が出るなど、即座にヨーロッパに紹介された。石碑は長安の金勝寺境内に碑亭を建て安置されていたが、1860年代にこの地方で回教徒による騒乱が起き、金勝寺が焼払われ碑亭も失われてしまう。その後西安碑林に運ばれ、現在はその碑林を母体とする西安碑林博物館が所蔵している。
碑は黒色の石灰石からなり、高さは台の亀趺(亀形の碑趺)を除いて約270cm、幅は平均約100cm、厚さ約28cm。題額には「大秦景教流行中国碑」とあり、その上部に十字架が線刻されている。碑文は32行、毎行62字、計約1900字。景浄の撰。書は呂秀巌で格調高い。漢字の外にエストランゲロと呼ばれる当時伝導に使用された古体のシリア文字が若干刻されている。この文字はおおよそ景教に関係ある僧侶約70人の名を記したもので、その大部分には相当する漢名を添える。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大秦景教流行中国碑」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nestorian Stele 」があります。
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