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朱皇后(しゅこうごう、234年 - 265年)は、三国時代の呉の景帝孫休の皇后。諡号は景皇后。揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)の出身。父は朱拠。母は孫魯育。異母兄は朱熊・朱損。 == 経歴 == 赤烏年間末、孫休の夫人となった。孫休の姪にあたるため儒教的にかなり問題視されたが、両者の仲は良好であった。 しかし二宮事件で朱拠が自殺を命じられ、太元2年(252年)には孫休が琅邪王として虎林に移ったため、朱夫人も同行した。同年、孫権が死去し諸葛恪が政権の中枢に就くと、軍事的要所の虎林に孫休がいることを嫌った諸葛恪によって丹陽に移され、郡役所で生活することになった。諸葛恪が孫峻によって誅殺されると、諸葛恪派だった李衡が保身の目的で丹陽太守に着任したため、孫峻から迫害を受けた。夫婦は丹陽からの移住を懇願し、会稽郡に移った。 五鳳2年(255年)、孫儀・張怡・林恂らによる孫峻暗殺未遂事件が起き、孫魯育も連座して殺害された。孫休にも災いが及ぶ危険があったため、やむなく朱夫人は建業に戻り、孫峻の元に出頭した。2人は手を取りあい涙ながらに別れたという。しかしこの出頭が功を奏し、朱夫人は咎めなく会稽に無事戻ることができた。 孫休が即位すると都に入り、永安5年(262年)に立后された。孫休の崩御後は「私は未亡人にすぎず、呉を存続できる人物であれば構いません」と述べ、皇子たちの即位に固着せず身を退いた。しかしそれが群臣たちに好ましく思われ、朱皇后は皇太后となった。 元興元年(264年)9月、即位した孫皓によって位を落とされた。さらに甘露元年(265年)7月、孫皓は彼女を迫害し死に追いやった。人々は死去した場所や葬儀の仕方などから、朱氏の死が病死でないことを知り悲しんだという。死後、定陵にある孫休の墓に合葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「景皇后朱氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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