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智 罃(ち おう、? - 紀元前560年)は、中国春秋時代の晋の政治家。将軍。姓は不明、氏は荀、もしくは領地名から智、諱は罃、字は子羽、諡は武。荀林父(中行桓子)の弟荀首(智首・智荘子)の子。智武子と呼ばれる。 == 生涯 == === 捕虜 === 晋の名門荀氏の一員として生まれた智罃は、父親の荀首から大変目をかけられていた。紀元前597年の邲の戦いの時には、下軍大夫の父荀首と共に戦陣に臨んだが、楚軍の圧倒的な軍事力の前に晋軍は崩壊し、智罃も捕虜として楚本国に連れて行かれる。 その後9年に亘って幽囚生活を送るが、智罃と面識がある鄭の商人が楚に来た時に彼と再会し、彼に脱獄の手助けを持ちかけてきた。智罃は荀氏の一員としての誇りと、望郷の念とを考え、もし翌年も幽囚生活を送っていたら脱獄することで話をつける。 その翌年の紀元前588年に智罃は、父の荀首が邲の戦いの際に捕虜にした共王の異母兄弟穀臣との捕虜交換で、晴れて帰国がかなった。智罃は帰国する際に共王に謁見し、幾つかの問答を交わした後、最後に「もし戦場でお会いしたら、全力であなたと戦います。」と述べて、共王からその勇気と気骨を褒め称えられた。 後に智罃は、晋で鄭の商人と再会し、その恩に報いる為に商人を大いにもてなそうとしたが、商人はこれを固辞したと言う。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「智オウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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