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暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12日 - 1954年〈昭和29年〉8月27日)は、真宗大谷派の僧侶、宗教家である。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。 同じ加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて加賀の三羽烏という。 == 経歴 == *1877年(明治10年)、石川県石川郡出城村字北安田(現白山市北安田)真宗大谷派の明達寺に長男としてに生まれる。父の暁烏依念(えねん)は説教使として知られた人物であった。母の千代野も、清貧に甘んじた夫に尽くし、敏の教育に熱心な母であった。 *1887年(明治20年)、父 依念と死別。 *1893年(明治26年)、共立尋常中学校を退学(日本語を世界に広めれば良いとの理由で、英語の試験をボイコットし落第したことが原因)。同年9月、京都の大谷尋常中学校に編入。清沢満之に出会い、以降師事する。 *1896年(明治29年)、真宗大学本科に入学。 *1897年(明治30年)、20歳で『歎異抄』に出会う。清沢の宗門革新運動に参加、退学になるも、翌年に復学する。 *1900年(明治33年)、真宗大学を卒業、東本願寺留学生として東京外国語学校露語別科に入学し、二葉亭四迷に教わるが中退。同年9月、親鸞の思想を近代哲学の観点から見直していた清沢満之が、近角常観の留守宅に主宰した私塾浩々洞に入洞する。佐々木月樵、多田鼎とともに浩々洞三羽烏と呼ばれる。 *1901年(明治34年)、浩々洞において『精神界』の刊行を発案し、浩々洞の同人らと共に発刊。 *1902年(明治35年)、佐々木月樵の妹である山田房子と結婚。 *1903年(明治36年)1月より、『精神界』の誌上にて「『歎異抄』を読む」という記事を、8年間55回にわたり連載し、世に『歎異抄』の存在を広める(「『歎異抄』を読む」を再編集したのが『歎異抄講話』)。同年6月6日、師 清沢満之が死去。浩々洞代表となる。 *1911年(明治44年)、その熱い情熱から異安心(浄土真宗における異端)扱いを受ける。 *1913年(大正2年)、妻 房子と死別。 *1914年(大正3年)、共立尋常中学校校長であった今川覚神の長女 総子と再婚。 *1915年(大正4年)、浩々洞代表を辞し、自坊の明達寺に戻る。各地で講演を行い、そのカリスマ性によって多くの信者を獲得する〔ベストセラー『地上』で知られた作家島田清次郎もその一人である。〕〔 宮沢賢治は、少年時代に真宗信者であった父が開催した仏教講話会で暁烏に接したことがあった(賢治は家の教えに倣って中学時代には『歎異抄』を耽読したりもしたが、のちに法華経信者となる)。〕。同年、『中外日報』誌上において、複雑な女性関係が問題視され「信界の強盗」と、再三にわたり非難されている。 *1924年(大正13年)、母 千代野と死別。 *1951年(昭和26年)1月、真宗大谷派の宗務総長に就任。窮地に追い詰められていた宗派の財政を回復させる。 *1952年(昭和27年)1月、宗務総長を辞任。自ら喜寿を迎えるに当たって、自坊の明達寺に清沢満之の像と、脇侍として合掌する自身の像を安置した臘扇堂を建立を計画する。 *1954年(昭和29年)8月20日、臘扇堂が完成、落慶法要を営む。27日、死去、満77歳(数え 78歳)歿。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「暁烏敏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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