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曇徴(どんちょう、生没年不詳)は、7世紀に高句麗から渡来した僧である。 『日本書紀』には、次のような記述がある。 近年まで、製紙の記述がここにおいて初出するという理由から、一般に曇徴は日本における製紙の創製者とみなされてきた。しかし、仮に曇徴によって初めてもたらされたのなら、碾磑の場合と同様にそう記されていたはずである。寿岳文章はその著書『日本の紙』の中で、諸文献を精査した上で、この記述は僧侶でありながら、儒学にも通じ、工芸面にも暗くなかった曇徴への讃辞であり、彼が絵具や紙墨を初めて作ったという意味に解するよりも、その製作にかけてはなかなかの達人であった、と取るのが妥当であるとしている〔寿岳文章, 『日本の紙』日本歴史叢書 新装版, 吉川弘文館, (1967, 1996), pp. 1-21.〕。戸籍用紙などの多くの紙を必要とする国家機構の整備が、この時代にはすでに始まっていたことも、曇徴以前に製紙技術が伝わっていた可能性を支持している〔柳橋真, 『和紙』の項, 『世界大百科事典』第2版, 平凡社, 2007.〕。 日本書紀には、この部分以外に曇徴の記述はない。『聖徳太子伝暦』(917年、または992年成立)には、聖徳太子が曇徴を斑鳩宮に招いて、その後に法隆寺に止住させたとある〔「十八年春三月。高麗僧曇徴。法定二口來。太子引入斑鳩宮。問之以昔身微言。二僧百拜。啓太子曰。我等學道年久。未知天眼。今遙想昔。殿下弟子而遊衡山者也。太子命曰。師等遲來。宜住吾寺。即置法隆寺」〕。しかし、当該書は後世に盛んに書かれた神話的太子伝の集大成であり、史実性は認められていない〔坂本太郎, 「聖徳太子」の項, 『国史大辞典』より, 吉川弘文館, 1979-1997. 加えて、この逸話は先行するどの太子伝にも見当たらない。〕。 一方、近年韓国では、法隆寺金堂壁画は曇徴の手によるものと主張されることがあり〔たとえばグローバル世界大百科事典 や、EncyKorea など参照。〕、国定の歴史教科書にも記述されている〔韓国国定歴史教科書 〕。しかし、それを支持する史料は一切なく(また現在の法隆寺は7世紀後半に再建されたものである)、俗説の域を出るものではない。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曇徴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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