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曹休[そう きゅう] 曹 休(そう きゅう、? - 228年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は文烈。曹操の族子(血は繋がってはいない)にあたる。祖父は曹鼎(呉郡太守)〔曹洪の伯父の尚書令曹鼎とは同姓同名の別人(『後漢書』「党錮列伝」および石井仁『曹操―魏の武帝』(新人物往来社、2000年)の巻末系図)。〕。父の名は不明。子は曹肇・曹纂ら。孫は曹興(曹肇の子)。曾孫は(曹興の子)・曹識(曹纂の孫)。玄孫には(曹識の子)らがいる。 == 経歴 ==
=== 若き日 === 戦乱で郷里を離れ、早くに父を失った。父の埋葬を済ませた後、かつての祖父の任地であった呉郡に渡った〔『三国志』魏志「曹休伝」注に引く『魏書』によると「ある時、休は太守の官舎で、壁にかかった呉郡太守であった祖父の肖像画を見かけ、亡き祖父に拝礼して涙を流した」とある。〕。 曹操が挙兵したと聞き、変名を使い荊州経由で故郷に帰還し、生母を伴って曹操の下に赴いた。曹操は側近たちに向かって「この子はわが家の千里の駒なり」と言い、曹休を褒めた。その後、曹丕同様に曹操から可愛がられ育てられた。従父の曹純死後に、その兵であった虎豹騎の指揮に曹真と共にあたった。曹操の晩年における主要な合戦の大半に従軍した。特に218年の漢中攻防戦では、曹洪の武将として曹真らとともに従軍し、劉備軍の計略を見破り、勝利に貢献した(武都の戦い)。その戦功で中領軍に任じられた。 曹丕が魏王を継ぐと、領軍将軍・東陽亭侯となった。後漢から魏への禅譲後、まもなく功臣の夏侯惇が死去すると鎮南将軍となり、仮節を与えられると共に、都督諸軍事に任命され、任地へ赴く際に曹丕(文帝)自らの見送りを受けるという厚遇を得た。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曹休」の詳細全文を読む
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