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曺 宰溱(チョ・ジェジン、、1981年7月9日 - )は、大韓民国坡州市出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。李天秀と生年月日が同じ。 == 来歴・人物 == 長身を活かし、クサビを受ける動きやポストプレーに長け、豪快なミドルシュートやコースを狙ったコントロールシュートも持ち合わせる。元々ミッドフィールダーだったという事もあり、足元の技術も高く、両足を器用に使える。サイドに流れることもあるが、一番の武器はヘディングである。 2000年、高校卒業後にKリーグの水原三星ブルーウィングスに入団。年代別代表には招集されたものの、Kリーグでの試合出場は少なかった。徴兵軽減措置が認められずに2002年からは韓国軍に入隊して光州尚武フェニックスに所属したが、ここでKリーグ出場の機会を増やした。 2年間の兵役を終え、2004年に水原三星に復帰。前年まで韓国代表FWの安貞桓が所属していたJ1の清水エスパルスからのオファーを受け、2004年7月に完全移籍。直後のアテネオリンピックではマリ戦で2得点を決めた。清水では2ndステージの12試合で7ゴールを挙げる。 2005年は1シーズンを通して清水でのプレーとなり、アテネ五輪で共に韓国代表でプレーした崔兌旭も加わって周辺環境は良化したが、相手選手の厳しいマークもあり、9得点に終わる。しかし主力選手の世代交代によるJ2降格の危機が続く、清水にとっては貴重なFWで、チームは最終節でJ1残留にこぎ着けた。 2006年には若手選手の成長でチーム力を取り戻した清水の中にあって、ジェジン自身も好調を保ち、ドイツW杯韓国代表に選出された。W杯本大会ではグループリーグの3試合全てに先発出場し、第2戦のフランス戦ではゴール前の競り合いから朴智星の同点ゴールを導いたが、自らのゴールはなく、韓国代表はグループリーグ敗退となった。W杯終了後も清水に残留し、韓国代表にも招集された。Jリーグでは2年連続での2ケタ得点を記録した。 2008年2月、欧州移籍を断念し、全北現代モータースと契約してKリーグへ復帰した。 2009年、全北現代からガンバ大阪へ2年契約で完全移籍した。開幕戦から15試合は出場機会も多く、7得点を決めた。しかし故障でスタメンを外れた時期とチームのスランプからの脱出がほぼ同時期だったこともあり、シーズン中盤以降はサブに回る機会が多くなった。 2010年はルーカスの負傷、その他ブラジル人選手の調整不足やペドロ・ジュニオールの造反行為もあり、開幕から主力を張るが、度重なる負傷に加え平井将生や宇佐美貴史といった若手FWの台頭、更には7月にジュビロ磐田から同じ韓国人の李根鎬の加入もありシーズン終了後、ガンバ大阪を退団。 2011年3月18日、股関節の負傷(先天性股関節異形成)によって現役引退を発表した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チョ宰榛」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cho Jae-jin 」があります。 スポンサード リンク
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