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曽根 康治(そね こうじ、1928年11月14日 - 1981年4月27日)は、日本の柔道家(8段)。1958年の世界選手権で優勝。得意技は内股や大外刈など。 == 来歴 == 埼玉県大里郡寄居町出身。父親が柔道6段、叔父が柔道9段で、兄も有段者という柔道一家に生まれる〔叔父・曽根幸蔵の経営する「曽根道場」は、空手家の大山倍達が若い頃に修行した事でも有名。父親の徳治は康治が3歳の時に35歳の若さで病死し、兄も19歳で戦死している。〕。7歳の時に地元・寄居町にて、長谷吉重郎(講道館8段)が館主を務める明道館に入門〔。 県立熊谷商業高校を卒業後は明治大学に進学し〔、入学直後には当時まだ少なかった3段に昇段した〔。しかし1・2年の頃の柔道部はGHQの圧力で武道は禁止されていたため稽古を大っぴらにはできず、“第2レスリング部”と称する柔道同好者の集いに過ぎなかった〔。 当時は寮もなく、寄居から駿河台の校舎まで電車に2時間半揺られて通学していたが、3年になりようやく“柔道部”が創設されて葛飾区の堀切に白雲寮ができると、そちらに移り住んだ〔。1952年に柔道部は葉山三郎7段(のち8段)を監督として、姿節雄7段(のち9段)を師範として迎え、4年生になり身長180cm・体重90kg弱と堂々たる体格となった曽根は、主将として柔道部を率いた〔。明大柔道部は総勢150人の部員を数えて他校を圧倒し、団体戦で全日本学生優勝大会を制したほか、曽根自身は個人戦でも全日本学生選手権で優勝を飾っている〔。 卒業後は富士製鐵(現・新日鉄住金)に所属した。1949年から1958年まで10年連続で国体に出場したほか、全日本東西対抗柔道大会にも1949年から6年連続で出場〔。 また全日本選手権では、初出場の1954年こそ一回戦で武専出身の橋元親に敗れたものの、翌55年にベスト4、56年には準優勝し、29歳で迎えた58年大会では苦手としていた小田雄三や強豪山舗公義らを下し念願の初優勝を遂げた。同年11月の第2回世界選手権の日本代表に選抜されると、大会では“黒い巨人”ことジョージ・ハリス(米)や川石酒造之助の直弟子に当たる名手ベルナール・パリゼ(仏)らを退け、決勝戦では大学の後輩に当たる神永昭夫を試合時間一杯の20分の激闘の末、判定でこれを破り優勝を決めた。 1961年12月の第3回世界選手権に先立ち、9月3日に福岡スポーツセンターで開催された日本代表決定戦では、本命と見られていた神永と猪熊功が怪我で欠場し、2人の引き立て役として出場した曽根が勝ち進み、決勝で東洋大出身の山岸均を大内刈で破って優勝してしまった〔。全日本柔道連盟の判断によりヘーシンク(蘭)対策として、代表決定大会に欠場した神永も世界選手権へ出場する事となったが、曽根は神永・猪熊の他に若い世代が伸びてこない当時の柔道界を嘆いていたという〔。 世界選手権では予想通りヘーシンクが快進撃を見せ、日本代表の神永が4回戦で判定負けを喫し、古賀武も準決勝でヘーシンクの内股に宙を舞った。決勝でヘーシンクと当たった曽根も袈裟固から逃れる事ができず、試合時間7分50秒で一本負を喫し銀メダルに終わった。既に現役のピークを過ぎていた当時33歳の曽根にとっては、精一杯の健闘だった。 引退後は母校・明治大学の監督などを務め、1977年には講道館より8段を許される〔。 新日本製鉄釜石製鉄所にて業務部長となった曽根は〔、1981年3月に"鉄の軍団"こと新日鉄釜石ラグビー部の部長に就任〔。しかし一度も指揮する事ないまま、4月27日に脳ガイ出血のため東京都千代田区の東京警察病院にて死去〔。享年52。告別式は中野区の宝仙寺で執り行われた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曽根康治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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