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曽 毓雋(そう いくしゅん)は清末中華民国の政治家。北京政府、安徽派に属した。字は雲沛または雲霈。 == 事績 == 1897年(光緒23年)、丁酉科挙人。清朝においては地方官職を歴任して、郵伝部参事まで至った。 中華民国成立後は、北京政府の交通部で各職を歴任し、1914年(民国3年)、陸軍部軍需処処長、張家口塩務稽核所経理となる。1916年(民国5年)、国務院秘書、京漢鉄路局長となる。翌年7月、段祺瑞の張勲討伐に随従し、討逆軍総司令部軍需処長に任じられた。これにより曽毓雋は、安徽派・交通系の政治家と目されることになった。 1918年(民国7年)、参議院議員となる。同年10月には、交通部次長兼鉄路総弁となった。翌年、川粤漢鉄路督弁となる。同年6月、銭能訓内閣で五四運動により辞任した曹汝霖の後任として、代理交通総長となる。そのまま12月には、靳雲鵬内閣で交通総長に正式に任命された。 しかし、1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が直隷派に敗北すると、曽毓雋は指名手配され、天津に逃げ込んだ。1924年(民国13年)11月、段が臨時執政として復権すると、曽もその幕僚として復権した。ところが翌年、国民軍に逮捕・拘禁されてしまい、何とか逃亡した。国民政府の北伐完了後は、国民政府からも指名手配を受ける身となっている。 1938年(民国27年)、南京の中華民国維新政府から任官の誘いを受けた。しかし曽毓雋はこれを拒否して香港に逃れた。同年6月、重慶に移る。国民政府から賑済委員会委員に任じられ、1941年(民国30年)5月までその地位にあった。中華人民共和国成立後は、天津に寓居している。 1967年11月14日、死去。享年93(満92歳)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曽毓雋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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