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曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた〔今野慶信「曽我十郎/・五郎」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 186ページ〕。 == 経緯 == 所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。 祐泰の妻の満江御前(満行とも。なお『吾妻鑑』にも『曽我物語』にも名は表記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。 その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。 祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。 文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。 箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。 兄弟は、仇討ちの成就を願うために箱根権現社に赴き、「この願いが成就するなら祐経の首をください、成就しないなら私達が拝殿を出たらすぐに蹴り殺してください。」と祈請した。この時、兄弟が詠んだ和歌が伝えられている〔「曾我物語」より。和歌もすべて同じ出典である。〕。 祈請を済ました二人は、かつて世話になった別当の元を訪れ、別当は泣く泣く「思い出して来てくれたのはとても嬉しいことだ。あなたたちに引き出物をあげましょう。」と言って二人をもてなし、五郎に兵庫鎖の太刀、十郎に黒鞘巻の小刀を与えた(両方とも源義経が木曽義仲討伐に上洛した際、討伐の成就を願って箱根権現へ納めたものであった。)〔。別当は「これらの刀は見知っている人も多かろう。くれぐれも「箱根の別当から与えられた。」とは言いなさるな。仇討ちが成功した時に「あの別当が兄弟に刀を与えたのだ」と騒がれては大変じゃからの。京の町で買ったとでも言っておきなさい。」と二人に言った〔。二人が去る時間になると、別当は二人を遠くの遠くまで見送りに来て「わしがいる限り、後世のことは心配なさるな。よくよく供養しましょう。」と言い、そこで和歌を詠んだ〔。 建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。 翌5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曾我兄弟の仇討ち」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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