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曾我 祐信(そが すけのぶ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、御家人。相模国曾我荘の領主。曾我兄弟の養父として知られる。 == 生涯 == 『曽我物語』では、実父河津祐泰の仇討ちを誓う曾我兄弟の影の薄い養父として描かれているが、れっきとした鎌倉幕府御家人であり、治承4年(1180年)8月23日の源頼朝挙兵石橋山の戦いの頃から記録が見られる。 当初、祐信は平家方として大庭景親軍に属して頼朝と敵対する立場であったが、戦況の転換に伴い10月18日に投降して捕虜となり、11月17日に赦免されて頼朝に臣従した。 元暦元年(1184年)2月、一ノ谷の戦いで源範頼の軍に属して戦った。文治元年(1185年)10月、勝長寿院の落慶供養で都から招いた導師に布施物の馬を引き渡す役を務め、嫡子・祐綱は随兵を務めた。弓射の芸に優れており、文治5年(1189年)正月、御弓始の射手に選ばれる。同年11月の頼朝上洛には祐信ではなく祐綱が供奉しており、嫡男の祐綱への世代交代が進められていたことがうかがえる。 曾我荘以外に所領のない曾我氏にとって、世代交替が終わるまでの過度な御家人役は負担であり、妻の連れ子であった十郎(祐成)・五郎(時致)兄弟に分与できるような所領もなかった。兄の十郎は不満を募らせていたと見られ、縁戚であった北条時政に接近し、建久元年(1190年)9月、弟五郎を伴って時政邸を訪れ、時政を五郎の烏帽子親として元服させている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曾我祐信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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