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曽 琦(そう き)は中華民国の政治家・ジャーナリスト。中国青年党結成メンバーの1人で、中央執行委員会委員長、主席などの最高指導者を務めた。旧名は昭琮、及長。北宋の政治家・韓琦の人となりを慕い、後に名を琦と改めた。ちなみに字も慕韓である。 == 事跡 == === 民初の活動 === 父が広西省に地方官吏として赴任することになったため、曽琦ら一家もこれに従った。1908年(光緒34年)、桂林中学を卒業したが、父母が相次いで世を去り家庭事情が苦しくなったため、四川に戻っている。その後、成都法政学堂に入学し、さらに『成都商報』などの新聞紙でジャーナリスト活動を開始した。辛亥革命前後は、実際に革命活動には参加しなかったものの、引き続き言論活動に従事している。 1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)では、革命派に直接参加したが、敗北したために故郷に隠れ住んだ。翌年、上海に移り、震旦学院で法律を学ぶ。このとき、後の中国青年党結成メンバーである左舜生・李璜らと知り合った。1916年(民国5年)春、日本に渡り、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)に入学して日本語を習得する。同年秋、中央大学に入学し、憲法・行政法を学んだ。このとき、華瀛通訊社を創設するなど、出版活動に従事している。また張勲復辟に際しては、梁啓超に手紙を送り、慎重な対応を促すなどした。 1918年(民国7年)5月、日華陸軍共同防敵軍事協定が結ばれたことに抗議して、曽琦は中央大学を中途退学して帰国する。同年7月、北京で王光析・李大釗らと少年中国学会を組織した。曽はその後上海に移って『救国日報』を創刊し、また章炳麟(章太炎)に師事した。翌1919年(民国8年)、五四運動が勃発すると、これを支持する論評を次々と発表している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「曽キ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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