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最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石〔『徳川実紀』、伊豆田忠悦「山形藩」『藩史大事典』第1巻(雄山閣出版、1988年)による。〕の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。兜は、三十八間金覆輪筋兜。 == 生涯 == === 家督相続まで === 天文15年(1546年)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野少将の娘との間に長男として生まれる。幼名は白寿。 永禄3年(1560年)に元服し(永禄元年1558年とも)、将軍・足利義輝より偏諱を賜り、源五郎義光と名乗った。この年3月、寒河江城攻めにて初陣を飾っている。しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。永禄6年(1563年)、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁し、〔道中の安全と武運長久を祈って義光の母が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が現存する。〕〔母、小野少将(永浦尼)は慶長8年(1603年)頃まで生存していたことが、地元、最上の千手堂観音に奉納された詠歌の額の存在から推測できる。詠歌「花を見ていまや手折らん千手堂 庭の千草もさかりなるらん」。〕この時義守・義光父子は幕府より御所号で遇されている〔永禄6年(1563年)出羽国之御所山形殿父子「言継卿記」『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』p.97-98〕。永禄7年(1564年)には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)には長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。 元亀元年(1570年)頃、当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じる。5月に重臣・氏家定直の仲裁で父子が和解することになる。そして、8月には義光が家督を相続し(翌年とも)、翌元亀2年(1571年)に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。しかし天正2年(1574年)1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが輝宗に同調するなど四面楚歌の状況であったが、義光はこれらの攻勢を巧みに退けた。9月10日には義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。以後、義守・義光父子は和解し、再び争うことはなかった。 従来、義守が義光を廃嫡して次男の義時に後を継がせようとしたことが両者不和の原因とされてきたが、一級史料には全く義時の名が見られないため、今日ではこの説は義時の存在も含めて後世の創作と見なされている(詳細は天正最上の乱を参照)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「最上義光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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