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月丘 夢路(つきおか ゆめじ、1922年10月14日 - )は、元宝塚歌劇団娘役スターで、日本の女優。本名:井上明子(いのうえ あきこ、旧姓:旭爪<ひのつめ>)、宝塚歌劇団時代の愛称:ツメ。 実妹は女優の月丘千秋、月丘洋子(松竹映画「花ある星座」や日活映画「美徳のよろめき」で共演)。夫は映画監督の井上梅次。一人娘は料理研究家の井上絵美。 == 来歴・人物 == 後年爆心地となった広島県広島市大手町(現:中区大手町)に薬局の長女として生まれる〔〔「ひろしま」-広島「八丁座」で上映 - 広島経済新聞 、ひろしま 〕。袋町尋常小学校を経て、県立広島高等女学校(現・広島県立広島皆実高等学校)在学中に小夜福子の宝塚少女歌劇団(現:宝塚歌劇団)の舞台を観て、感激して宝塚少女歌劇団に入団することを決意する〔『日本映画俳優全集・女優編』、キネマ旬報社、1980年、452-454頁〕。反対する親を説得して女学校を中退した後、1937年、宝塚音楽歌劇学校に入学。宝塚歌劇団27期生。同期生に浦島歌女、大路三千緒、乙羽信子、越路吹雪、東郷晴子、瑠璃豊美らがいる。宝塚入団時の成績は93人中27位〔監修:小林公一「宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)」、阪急コミュニケーションズ、2014年4月1日、32頁。ISBN 9784484146010〕。1939年、宝塚少女歌劇団生徒として『宝塚花物語』で初舞台を踏む(この初舞台の主演は小夜福子)。以降、その類稀れな美貌で娘役スターとなり活躍。ちなみに、後の映画『満月城の歌合戦』でも小夜福子と共演。そして、日活移籍第一作となった映画『あした来る人』でも小夜福子は月丘の母親役を務めている。 1940年、宝塚歌劇団在団中に宝塚映画『瞼の戦場』の主演で映画デビュー。1942年、大映映画『新雪』に大都映画にいた水島道太郎と共に主演し大ヒット(主題歌は灰田勝彦)し映画界でも大スターとなる。1943年に宝塚歌劇団を退団。最終出演公演は花組公演『心の故郷/希望の泉』〔である。その後は大映に入社して、映画女優として活躍。 1947年、轟夕起子に誘われて、轟の夫のマキノ正博が所長をしていた松竹京都に移籍。松竹でもトップ女優として活躍。四歳下の妹・月丘千秋も宝塚音楽学校を経て松竹入りしており、映画『地獄の顔』で妹・千秋と共演。 1951年7月、軽喜劇『東京のお嬢さん』のため渡米。二ヶ月で帰国する予定だったが声楽と舞踊を本格的に学ぶためニューヨークに残る。当時はまだ海外渡航自由化の遥か前で、大変貴重なニューヨーク滞在となった。ちなみに、月丘はこのニューヨーク滞在中に、1949年に日本人初のノーベル賞を受賞(ノーベル物理学賞)して、当時コロンビア大学の教授としてニューヨークに赴任していた湯川秀樹博士・湯川スミ夫妻に面会している。1952年4月、渡米前まで同棲していた岩井庄蔵が独断で入籍し夢路の家を売却し別の女性と行方をくらまし、告訴騒動となる。 1953年1月2日、第3回NHK紅白歌合戦に初出場し、「新雪」を歌唱した(当時の紅白は正月に開催されていた)。映像や音声は現存しないが、月丘の歌唱中の写真や紅組の歌手席に座っている写真が現存する〔NHKウイークリーステラ臨時増刊『紅白50回〜栄光と感動の全記録〜』、NHKサービスセンター刊、2000年1月16日発行〕。 1955年1月、製作を再開したばかりの日活に移籍。出演料は映画1本に付き200万円で松竹時代の倍となり、当時の日活俳優達の中で最も高額の出演料だった。日本の女優のヌード第1号は前田通子だが、本来は月丘が最初のヌード女優として記録されるはずだった。1957年の「白夜の妖女」(滝沢英輔監督)では、撮影段階ではヌード・シーンや激しい濡れ場が撮影されたが、時代背景から映画館での公開時には、完全ボカシ状態で上映された。(晋遊舎:黄金のGT)。1957年、井上梅次監督と結婚、井上とは絵美の出生などを挟み2010年2月に死別するまで連れ添った。 しかし、日活がアクション映画に路線変更すると速やかに後輩の石原裕次郎らにトップスターのバトンを渡し、1959年にフリーとなる。以後は出産・育児や家庭のため出演数をセーブしながら脇に回り、映画やテレビドラマ、舞台で活動。 夫・井上とともにジャニー喜多川と親交があり関連会社の代表を務め、舞台などでジャニーズ事務所所属のタレントとよく共演したが、1971年6月乗り合わせた車が交通事故に逢った際、フロントガラスの破片で顔に深刻な傷跡が残るほどの重傷を負ったことや、近年の自身と梅次の高齢化などもあり往年とはちがい、活動ペースをセーブしている。 2004年(平成16年)11月18日に開催された神戸100年映画祭のプレイベントにおいて、ロシアのモスクワ市郊外にあるゴスフィルモフォンド(ロシア国立映画保存所)で全編124分の内、74分の映像フィルムが収蔵保管されていたことが判明して、ロケ地である兵庫県神戸市の神戸文化ホールで映画「新雪」が上映された際に、トークショウにゲストとして出席して撮影当時のことを振り返った。 2010年(平成22年)2月11日、夫・井上が脳出血で死去。後述の『徹子の部屋』出演時に、「先に逝かれるとは思わなかった。」と語っている。また、「おかげで雑用に追われているなかで整理もできている。」と話していた。なお後日、帝国ホテルで開かれた井上梅次のお別れの会には腰を痛めたために出席できず、娘の絵美だけで来客を饗した。 2011年(平成23年)2月18日に開催された日本アカデミー賞授賞式に会長特別賞を受賞した夫・井上梅次の代理として88歳の元気な姿で娘の井上絵美と共に臨席。久々に公の場に姿を現した。 東日本大震災によって引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所事故によって、放射能汚染について世間の関心が高まり、1945年(昭和20年)に広島県広島市に投下された原爆による被害の惨状を描いた主演映画「ひろしま」(1953年製作)が脚光を浴びたことを受けて、新聞の取材に応じ、2011年(平成23年)8月12日に記事が紙面上に掲載された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「月丘夢路」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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