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月岡 雪鼎(つきおか せってい、享保11年(1726年)〔仁和寺の僧官が日毎に記した事務記録『御室御記』明和二年六月二十二日条、安永七年三月廿五日条より逆算。山東京伝が『浮世絵類考』に加筆した『追考』(享和2年(1802年))の書き入れ部分に、「天明六年十二月四日歿 歳七十七」とある事から逆算して、宝永7年(1710年)生まれというのが定説だが、『御室御記』が雪鼎在世中の一次史料であり、仁和寺の事務記録という公的性格を考慮すれば、こちらのほうが信憑性が高いと考えられる。ただし、江戸時代では僧位を届け出る際、後に子息が官位を届け出る時の家例になるからという理由で、実際の年齢より若く申告する例もあり、この生年が必ずしも正しいとは言い切れない。また、享保11年生まれとすると雪鼎は61歳で没したことになるが、作品の行年書きには63歳を上限、70歳を下限として法眼落款とともに行年を書き入れた例が存在する。最もこれは、行年書きが基本的に還暦を過ぎてから書き入れる慣習があったため、実年齢よりも加算して記した可能性がある(山本ゆかり(2010)pp.61-65)。〕 - 天明6年12月4日(1787年1月22日))は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した浮世絵師。 == 略歴 == 姓は源、本姓は木田、名は昌信。俗称を馬淵丹下といい、字を大渓といった。号に、信天翁、月岡山人、露仁斎、錦童、桃漪など。近江国蒲生郡日野大谷村(現在の滋賀県蒲生郡日野町大谷)生まれ。大谷には「月岡山」という小高い丘があり、雪鼎はこの山の名称から「月岡」と号したと伝承がある〔滋賀県日野町教育会編 『近江日野町志』昭和5年(1930年)刊。復刻版は臨川書店、昭和61年(1986年)〕。現在、この月岡山には雪鼎を顕彰する石碑が建てられている。一方、画号の「雪鼎」の由来は分かっていない。 父・木戸平四郎友貞は医者で、大坂に移住。雪鼎も家業の医者を継ぐも病気がちで断念する。その後、同郷の京狩野派の絵師・高田敬輔門下で、本格的な画法を学んでいたが、西川祐信の影響で「月下擣衣図」(絹本着色)などのような肉筆美人画も描く。現在、確認できる最初の作品は、宝暦3年(1753年)正月刊行の『絵本龍田山』で、宝暦年間に手がけた版本は確認出来るだけで30冊に及ぶ。仁和寺に申し出、明和2年(1765年)6月に法橋位を得る。この頃は大坂江戸堀2丁目に住み、隣人は国学者・江田世恭、大坂の文人サロン・混沌詩社を中心とする詩人や学者と交流を持った。作品も版本は減り、代わりに肉筆画が増えていく。安永7年(1778年)3月に息子・雪斎は法橋、自身は法眼に推免された〔『御室御記』。なお同書では、仁和寺が永宣旨によって許可する僧位に対し「叙任」「叙す」という言葉は使わず、「御推免」「御免」「免許」「被 免候」など「免」の語が用いられている。これは当時「叙」の語は勅許で位を得た時に用い、永宣旨の場合は「免」の語を用いる区別があったものとみられる(山本ゆかり(2010)p.60〉。〕。法橋位を得た年かまたは翌年から、行年書に9歳または10歳加算するようになる。以後、3幅対や屏風など大画面の作品を手掛けることが多くなり、富裕な人々からの注文が増えたと推測される。1775年、大坂浪華塩町の心斎橋筋に移住。享年77。 長男月岡雪斎、次男月岡雪渓も浮世絵師。門人に蔀関月、岡田玉山、墨江武禅、森周峰、桂宗信など。門人と推定される絵師に田中巨川斎がいる。また一説に、月岡芳年は雪鼎の長男、月岡雪斎の画系をひいているといわれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「月岡雪鼎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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