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帯江(おびえ)は、岡山県倉敷市倉敷地区にある地域である。かつての都窪郡帯江村(おびえそん)に相当する。 現在の帯江小学校区にあたる。 ==概要== 倉敷市の倉敷地区東部に位置する。羽島(はしま)、二日市(ふつかいち)、加須山(かすやま)、亀山(かめやま)、帯高(おびたか)、有城(ありき)、倉敷ハイツ(くらしき-)からなる。北西から南東に細長いエリアである。 倉敷地区の中央に座する南北に長い丘陵地帯(加須山山塊)の東側およびその麓の平地にあたる。西部に豊洲・茶屋町、南部に藤戸・粒江・新田、北部に中庄・万寿、西部は倉敷中心市街地と接する。〔岡山県大百科事典編集委員会編集『岡山県大百科事典』(1979年)山陽新聞社〕 古くは周囲は吉備の穴海と呼ばれる海域で、加須山丘陵は島嶼であった。麓の平地は、干拓による新田地帯であった。〔 『帯江村史』には、天正13年、当時の岡山城主宇喜多秀家がいわゆる「宇喜多堤」築造による干拓を行い、新田を開墾したとされる。江戸時代にはこれに続く帯江新田(寛永4年)・早島新田(宝永4年)〔両者とも現在の茶屋町地区。〕などが造成された。〔 元々は、江戸時代に現在の二日市が帯江村と呼ばれていたが、古くは帯江は現在の中庄~帯江~豊洲一帯が海域だった頃の海峡地帯の名称であった。それを由来に村名を付けたとされる。その後、寛永5年に戸川氏が帯江村に陣屋を構えて帯江知行所を名乗る。元禄期に帯江村が二日市村に改称。明治22年に、窪屋郡羽島・二日市・加須山・亀山・高沼(旧早島知行所領を除く)・有城の6村が合併し、同郡帯高村(帯江と高沼の頭文字の合成)となり、同22年6月1日の町村制施行時に、地域内のいずれもが江戸時代に帯江知行所戸川氏の所領であったので帯江村に改称する。昭和26年に倉敷市(旧)に編入合併した。〔巌津政右衛門 『岡山地名事典』(1974年)日本文教出版社〕〔 元々は、水田を中心とした農村地帯であり、コメの他にムギやイグサを主産物とし、イグサを加工した畳表や花筵を生産したが、第二次世界大戦後に国道2号線岡山バイパスが当地中部を通過すると、国道など幹線道路沿いを中心に商店・企業が進出、また中心市街地に近いことから農地は次々と宅地に代わり、丘陵上などには団地が造成され人口は急増、現在は完全に都市化している。〔〔 寿永3年の藤戸の戦いのとき、源氏方は当時は島だった当地の加須山丘陵や高坪山(有城)と陣地とした。また、佐々木盛綱が藤戸海峡を馬で渡ったことに関連する佐々木谷や乗出し岩などの史跡がある。〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「帯江」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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