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有泉 龍之助〔*>昭和13年6月20日付 海軍辞令公報 (部内限)号外 第198号、昭和19年12月18日付 秘海軍辞令公報 甲 第1672号ほか、海軍辞令公報による。龍之介ではない。〕(ありいずみ たつのすけ、1904年(明治37年)4月16日 - 1945年(昭和20年)8月31日〔*>『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』では8月29日となっているが著者の外山操が後年著した『艦長たちの軍艦史』では31日、半藤一利の『戦死の遺書』その他の文献も31日である。〕)は、日本の海軍軍人(海兵51期卒)。最終階級は海軍大佐。 == 経歴 == 茨城県出身。旧幕臣で日本海海戦に参戦〔有終会『懐旧録』〕した海軍主計中佐〔104頁〕・有泉庚午の長男として生れる。静岡中学校を経て、1923年(大正12年)7月、海軍兵学校(51期)を卒業。1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科、海軍潜水学校(乙種学生)で学ぶ。 1931年(昭和6年)4月、「呂号第六十四潜水艦」乗組となり、装甲巡洋艦「浅間」分隊長、「伊号第五十一潜水艦」「伊号第百五十六潜水艦」「伊号第七十潜水艦」の各水雷長を経て、1937年(昭和12年)7月、海軍大学校(甲種35期)を卒業。 1937年(昭和12年)8月、佐世保警備戦隊参謀に就任し、第3潜水戦隊参謀、「呂号第三十三潜水艦」長を歴任し、軍令部第1部第2課部員となり潜水艦の主務者であった。1940年(昭和15年)11月、海軍中佐に進級し、太平洋戦争を迎えた。有泉は真珠湾攻撃に特殊潜航艇「甲標的」を使用することを主張し実現させた。 1942年(昭和17年)3月、第8潜水戦隊参謀に発令され、第11潜水戦隊参謀、「伊号第八潜水艦」長を歴任。1944年(昭和19年)10月、海軍大佐に進級。同年12月15日、第六三一海軍航空隊司令兼副長に就任。1945年(昭和20年)1月1日、第1潜水隊司令兼務。7月23日、ウルシー環礁に在泊する連合軍艦船攻撃の命を受け「伊号第四百一潜水艦」に座乗し大湊を出撃。攻撃開始の直前に終戦となり、降伏の命令を現地で受ける。艦内では自沈か攻撃かで激論となったが、結局は艦長の判断で帰還と決し、帰還途上の8月29日、米海軍により海上で接収され、有泉は司令室で自決した。机には真珠湾攻撃で戦死した九軍神の写真があったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有泉龍之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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