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有馬 康純(ありま やすずみ) #江戸時代前期の大名。有馬直純の長男。以下で詳述。 #戦国武将。有馬貴純の三男。左馬太夫。長崎氏の養子に入る。長崎康純。 ---- 有馬 康純(ありま やすずみ、慶長18年8月1日(1613年9月15日) - 元禄5年4月12日(1692年5月27日))は、江戸時代前期の大名。日向国延岡藩有馬家第2代藩主。晴信系肥前有馬氏第3代。嘉祥(かしょう)公。 延岡藩初代藩主・有馬直純の長男。母は国姫(本多忠政の娘、徳川家康の養女)。正室は水野忠清の娘。継室は阿部忠秋の養女(阿部政澄の娘)。側室に草野氏、樫沢氏、馬場氏、伊東氏、松木氏。子に有馬清純(長男、第3代藩主)、本多純親(次男)、平岡頼恒(三男)、有馬純息(四男)、有馬純富(七男)、有馬純珍(八男)、有馬純就(九男)、有馬純英(十男)、娘(大村純長継室)、娘(分部嘉高正室のち諏訪頼蔭正室)、娘(沼間清氏室)、娘(阿部正員正室)、娘(真田正房室)、娘(戸川安宣正室)。官位は従五位下左衛門佐。 ==生涯== 慶長18年(1613年)8月1日、有馬直純の嫡子として肥前日野江(長崎県南島原市)原城に生まれる。幼名は大助。 慶長19年(1614年)7月、父の転封にともない縣に移る。元和2年(1616年)、駿府(静岡市)で徳川家康に謁見、母の国姫が家康の曾孫だったことから寵愛され「康」の諱字を賜り、蔵人康純と称す。母とともに駿府ついで江戸屋敷に滞在。寛永3年(1626年)9月1日、元服して従五位下に叙せられる。 寛永18年(1641年)に父の死去により家督を継ぎ、須志田村508石を除く諸縣郡の本庄村、森永村、竹田村、塚原村(現在はいずれも国富町の一部)の併せて3,000石を、弟の八兵衛元純(有馬純政、後に本多姓を名乗る)に分知し、旗本とした。承応元年(1652年)から明暦元年(1655年)にかけて縣城(延岡城)を修築し、それに伴い近世城下町としての町割りが整われた。なお、現在の延岡市の名称の由来は、康純が明暦2年(1656年)に今山八幡宮に寄進した梵鐘(「城山の鐘」)の銘文からきているともいわれている。 延宝7年(1679年)11月27日、家督を嫡子・清純に譲り、隠居。延宝9年(1681年)4月21日、新たに建てた門川の隠居宅に移る。天和2年(1682年)に剃髪して出家し、假宿と号す。貞享4年(1687年)に、ふたたび縣(延岡)の三瀬(現、三ツ瀬町)の隠居宅へ移る。 元禄5年(1692年)4月8日、中風に倒れ、同12日の巳の刻(午前10時前後)に三瀬の隠居宅で死去。享年80。葬儀は14日に有馬家菩提寺の高岳寺(現北小路城影寺の所在地、現在は福井県丸岡町に移転)にて執り行われた。4月16日、隠居宅のあった三ツ瀬に近い恒富村の簗場(やなば)にて荼毘(『藤原有馬世譜』、巻五、嘉祥公譜)にふされた後、高岳寺に納骨される。法名は嘉祥院殿徹洞宗通大居士。なお、この記述は延岡の名物である「鮎梁漁」が、300年以上の歴史を持つことを示す最古の史料となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有馬康純」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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