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有馬 頼咸(ありま よりしげ)は、筑後久留米藩の第11代(最後)の藩主。久留米藩有馬家12代。 幕末期、久留米藩主としての時期の諱は慶頼(よしより)であるが、本項の記述では明治元年(1868年)改名以後の頼咸で統一する。 == 生涯 == === 生い立ち === 文政11年(1828年)7月17日、第9代藩主・有馬頼徳の七男として、久留米城内に生まれる。 弘化3年(1846年)、異母兄である第10代藩主・頼永が重篤になったため、その養子となる。頼永の死にともない家督を継いで20歳で第11代藩主となり、12代将軍徳川家慶から偏諱を賜って慶頼と改名した。家督継承に際して従四位下・侍従・中務大輔に叙位・任官された。なお、後の安政6年(1859年)に左少将に遷任され、慶応4年(1868年)に左中将に遷任される。 頼永の後継については、聡明とされた弟の富之丞(後に武蔵川越藩松平家を継ぎ松平直克と改名)を擁立する動きもあった〔『久留米人物誌』p.56〕。久留米藩では水戸学(天保学)を奉じるグループ「天保学連」が頼永に起用されて藩政に影響を及ぼしていたが、天保学連の若手で頼永に近侍していた村上量弘(守太郎)や野崎平八らは、万一の際にまずは頼咸を立て、富之丞が15歳になったら藩主の地位を継がせるという腹案を持っていた〔林(2010年)、p.150〕。一方、天保学連の指導層にあたる真木保臣や木村重任(三郎)らはこれを知り、長幼の序を乱すものとして反対した〔〔。天保学連は、後継問題を契機として村上ら「内同志」グループと真木ら「外同志」グループに分裂、以後長く対立することとなった〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有馬頼咸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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