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有馬 豊氏(ありま とようじ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹波福知山藩主、のち筑後久留米藩初代藩主。久留米藩有馬家2代。 == 生涯 == 永禄12年(1569年)、摂津有馬氏の一族である有馬則頼の二男として播磨国三木の満田城にて誕生〔篠原(1981年)p.47〕。摂津有馬氏は、赤松氏の庶流で有馬赤松家ともいい、室町時代に摂津国有馬郡を本拠としたことから有馬を苗字とした一族である。豊氏の家はこの摂津有馬氏の一族で、祖父である有馬重則が三木に進出した。また、重則の正室は室町幕府管領の細川京兆家の出身であり、豊氏は細川澄元の孫にあたるという名門の血筋である。 豊氏は、少壮より父に従って各地を転戦したが〔、有馬家には兄の次期当主である則氏がいたので、姉婿にあたる大名・渡瀬繁詮に仕え、家老を務めた。天正20年(1592年)の豊臣氏による朝鮮出兵に際しては、兵200を率いて名護屋城に参陣している〔林(2010年)p.29〕。 文禄4年(1595年)、渡瀬繁詮が豊臣秀次の事件に連座して改易されたうえに切腹させられると、豊臣秀吉の命によりその所領と家臣を全て引き継ぎ、遠江国横須賀3万石の大名として秀吉に仕えることとなった。 秀吉死後は、父の則頼とともに徳川家康に接近し、慶長4年(1599年)正月には家康の命により淀城の守備に当たっている。徳川家の御伽衆として遇され〔、慶長5年(1600年)6月には家康の養女連姫(蓮姫)を娶った。 同年9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、美濃国岐阜城攻めや関ヶ原本戦で後ろ備えを務めた。有馬父子の功績に対して同年12月、家康は、父の則頼には有馬家の発祥地である有馬郡三田2万石の知行を許し、豊氏を山陰の丹波福知山6万石に加増のうえ転封とした。直後の慶長7年(1602年)に父が死去すると、その遺領・三田2万石も継承し、8万石の大名となった。豊氏は初代福知山藩主として福知山の町を築いたことで知られる。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても徳川方として参戦して功を挙げた〔篠原(1981年)p.48〕。 元和6年(1620年)12月8日、筑後国久留米に21万石を与えられ国持ち大名となった。元和7年(1621年)3月18日、久留米に入部した。前藩主・田中氏の統治の際に、支城のひとつであった久留米城は一国一城令により破却されており、豊氏は久留米城の修築や城下町の整備を進めながら領国経営を開始する。久留米城修築に際しては、榎津城・福島城など廃城の資材が転用された〔。また、同年には、丹波福知山の瑞巌寺を久留米に移し、梅林寺を建立している〔。 寛永14年(1637年)11月に島原の乱が勃発すると、豊氏は当時江戸にあり、老齢であったのにもかかわらず自ら島原まで出陣している〔。島原の乱では久留米藩から6300余人が出陣しており、戦死173人、手負い1412人を出している〔林(2010年)p.37〕。 寛永19年(1642年)閏9月29日、74歳で死去。跡を長男・忠頼が継いだ。墓所は福岡県久留米市京町の江南山梅林寺。豊氏の死後、近侍の2名が殉死しており、のちに豊氏の廟のかたわらに葬られている〔。明治10年に篠山神社が創建されると、豊氏も祀られた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有馬豊氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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