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服部 正也(はっとり まさや、1918年10月13日 - 1999年11月29日)は、日本の銀行家、実業家。日本人初の世界銀行副総裁。 == 経歴 == 1918年(大正8年)三重県三重郡三重村(現:四日市市)に生まれる。幼少時は、ロンドンで7年間、上海で3年間をすごす。長崎県の旧制大村中学校、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。海軍予備学生となり、敵暗号の解読にあたる。通信学校で阿川弘之らを指導したが、服部は鉄拳制裁を辞さない鬼教官であった。 日本銀行に入行後、フルブライト基金によりアメリカに留学、ミネソタ大学大学院で学ぶ。帰国後パリに3年間駐在し、同銀行外国局渉外課長をつとめる。パリ時代にフランス・フランの切り下げを2回経験し、その政策や国庫制度を調べる。帰国後は東南アジア中央銀行職員研修に参加し、ボンベイ、カラチなどに滞在。当地での体験が経済発展についての考え方に影響を与える。 1964年(昭和39年)12月30日に国際通貨基金の依頼を受け、ルワンダの中央銀行総裁として技術援助計画に出向。グレゴワール・カイバンダ大統領のもとで経済再建計画を立案し、通貨改革を行なう。当初の任期は、病気により退任した前任者の任期である1965年5月6日までの予定であったが、その後1年間に延長され、最終的には6年間におよんだ。 帰国後は日本銀行に復職し、ニクソン・ショック後の一連の国際会議に参加。世界銀行(国際復興開発銀行)に転職し、西アフリカ局審議役、ファイナンス担当シニア・アドバイザー、経理局長を経て副総裁となる。 世界銀行の定年退職後は、日本貿易振興機構、国際協力事業団、国際連合開発計画などの依頼で各国へ出張。国際農業開発基金の委員や、アフリカ開発銀行の「今後の十年の方向を考える十人委員会」の委員をつとめる。シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル社長、会長を歴任。晩年まで各国の会議への参加や執筆活動を続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「服部正也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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